高松城攻め


2020年02月

内陸より伸びて来る鉄道は高松で終着点となり、ここからは起点として海の上を都心へと向かい進んでいく。交通の要である高松には、人や物資が集積され、繁華な町を形成し、町を縦断する大きな商店街は見どころの1つだ。
その商店街を北へ向け歩いていると、やがて高松城へとたどり着く。堀には海水を引き込み、海に面しているのが特徴的な城である。現在でも城の目前にフェリー乗り場があり、昔と変わらない役割を持っているように感じられる。


2月の瀬戸内のささやかな陽光と、時折吹き付ける海風、まだ少し肌寒い季節に高松城へと訪問いたしました。
高松城は豊臣秀吉の時代に、讃岐国を与えられた生駒親正が築いたもので、その後、寛永17年(1642)に常陸国から松平頼重が入部し、改修を加えました。天守閣は現存しておりませんが、櫓や門、石垣などが残っていて、城らしい城として見応えがあろうかと思います。

パンフレットの高松城の図 ※クリック拡大

現地看板の高松城の図 ※クリック拡大

北は海に接し、南へは、内堀・中堀・外堀と三重に堀を配し、本丸を中心に周囲を曲輪群が守っています。城自体は単純な構造であり、防御を高めるために外堀の城下町にも堀や寺町を配して備えをしていたといいます。

高松城西入口

高松城東入口

高松城は西と東に入場口があり、それぞれ料金所が配されています。
少し荒く野面積みされた石垣が目立つのが西入口で、見事に成形された切石で構成された石垣を持つのが東入口となっております。

西ノ丸から二ノ丸への入口が現在の西入口となっていて、本丸や二ノ丸を守っていた内堀は埋め立てられております。高松築港駅はちょうど本丸西側の内堀を埋めた部分に作られており、この日は祝日であったにも関わらず多くの乗降客で賑わっており、高松という都市がどれほど人々に愛されているかが分かるかと思います。

西入口の石垣

西入口の埋め立て後の内堀

西入口の石垣は、叩き割ったそのままのゴツゴツとした切り口が目立つ岩を多く使用し非常に迫力がある造りです。反面、角の隅石はかなり綺麗に成形されているので後世の補修跡だとよく分かります。

西入口を通るとそこが二ノ丸で、現在は東と南だけが堀になっていますが、昔は周囲すべて堀となっておりました。二ノ丸からは西ノ丸、三ノ丸、本丸それぞれへとつながる道があり、特に本丸へ通じる唯一の橋は鞘橋と呼ばれています。屋根付きでいかにも高級貴族が使いそうな橋でありますが、築城当初は屋根などついておらなかったようです。

二の丸跡

天守台から鞘橋と二の丸

鞘橋から西、高松築港駅

鞘橋から東、披雲閣庭園

鞘橋は外から眺めても綺麗ですが、中から眺める景色はさらに素晴らしく、西を向けば高松築港駅で、せわしなく動く人々を横目に優雅な気分を味わえ、東を向けば天守台の滑らかな石垣のラインと共に映る披雲閣庭園の松並木が美しく、これもまた優雅な気分を味わえます。

優雅で高貴な気分に酔いしれながら、鞘橋を渡りきり本丸へ。これまで幾人の人々を酔いしれさせたことでしょうか、どこまでも憎い演出を試みる高松市であります。

本丸も二ノ丸同様に大きな内堀に囲われている孤立した要塞になっています。その本丸から一段高く造られたのが天守台で、大小入り混じった石垣の曲線美が非常に美しいです。
天守台の石垣は平成17年から平成24年にかけて修理していて、その時の発掘調査で天守閣には地下1階があることが分かったとのこと。地下1階には「田」の字状に礎石が置かれ、「田」の中心部分には掘立柱が設置されていたと説明されていました。詳しい説明は無かったのでよく分かりませんが、田の字にしっかりとした基礎の柱を据え、堀立柱はそれらを柔軟に支えている、という構造でしょうか?
その柱が支える在りし日の天守閣は、生駒家が改易されたのちに入部してきた松平頼重が改築したものです。頼重は水戸光圀の兄でありましたが、なんらかの事情があり(詳しく分からない)、水戸藩主にはなれずに高松藩主として移封されてきました。その頼重は自身の子を水戸光圀の養子とし、水戸藩主とならさしめ、水戸光圀の子は自分の養子とし高松藩主とならさしめたのです。
光圀目線では兄を差し置いて水戸藩主になったのは朱子学を語る者の風上にもおけぬ、ということでありましょうが、頼重目線では御三家という重苦しい立場から逃れ、お気楽三昧の日々であったやもしれませぬ。なんらかの事情が分からないので難しい問題ですが、ともかくも養子を迎え合うことにより、水戸徳川家は高松藩12万石を手にすることができたのであります。
さて、そのお気楽三昧の日々を送る頼重は天守閣の改築ならびに、北ノ丸や東ノ丸を新造します。さらに水戸光圀の子である二代藩主頼常も光圀の口やかましさから逃れ得た解放感からか、月見櫓や艮櫓を建築します。そのうえ三ノ丸に藩主御殿・披雲閣という豪邸を造り、ここで政務をとっていました。
豪気な戦国が終わり、華美を好む元禄文化が花開こうかという時代の放蕩な感覚がさせたともいえるかと思いますし、光圀という意固地爺への反発がさせた行為、という見方もあるかもしれません。

本丸より天守台

披雲閣庭園より天守台

天守台の地下部分

在りし日の天守閣

頼重の改築以後、変わる事が無かった天守閣も明治時代には解体されることになりましたが、特徴的な外観をしており、4階建ての最上階が1段下の階より広く張り出した南蛮造りという形態で、小倉城天守を模範したということが「小神野筆帖」という江戸時代の文献に記載されているようです。
高松市はこの少し珍しい形の天守閣を復元しようと計画していて、天守閣内部の情報が少しでも欲しいと、懸賞金を掛けて復元につながるような写真や設計図面を募集しています。平成28年から平成34年までの期間、3000万円という多額の報酬を用意して待っているようですが、今まで出てこないのだから難しいと思われます。
一般的な意見としては、遊覧客が楽しめる場を提供するための象徴として建築したいと思うならば、復元にこだわる必要はありませんし、天守閣の詳細が知りたい人に対してならば、丁寧な説明看板や資料の配布をすればよろしいかと思います。
少し考えてみると、復元とはまるでお金を動かす為に文化財を利用しているようにも思えてきます。これもまた憎い演出へとつながっていくのでしょう。

天守台から海を見る

文化財とは何なのか?何故、文化財の為に大金が使われていくのか?高松城は復元しなければいけないのか?色々な疑問が私の頭を巡ります。私は、頭を巡らせながらも城を巡ります。高松市が誘導するルートを巡るだけなのであります。
再度二ノ丸に戻り三ノ丸へ。三ノ丸には頼重・頼常義親子が建築した披雲閣という住居兼政庁がありましたが、大正時代に老朽化の為改築され現在の庭園となりました。その披雲閣は現在、高松市により色々な展示に使われているようで、この日は音楽会のようなものが催されておりました。その少し悲しい音色を聞いていると、高松城がむせび泣いているようにも思えました。

披雲閣の北側には頼常坊ちゃまが増築された「渡櫓」と「月見櫓」があります。この場所は海へ出る為の門が設置してあり、坊ちゃまの住居である披雲閣にも近い事から、非常時の脱出路のようにも見えますし、海への遊覧などにも使用していたのかもしれません。

渡櫓を北から

月見櫓を南から

渡櫓の石垣継ぎ足し部

渡櫓の石垣の家紋

生駒時代の高松城は、三ノ丸までしかありませんでした。しかし、松平義親子時代になり、三ノ丸より北にも曲輪を造り、そこを石垣で囲うために石垣を継ぎ足したのです。その痕跡が左写真の中央に映る石垣の線です。ここより右側が増築した部分で上には渡櫓が建ち、出入口門、月見櫓へとつながります。言われてみると不自然に見えますが、気にしてみないと分からないくらい上手く造られておりました。

月見櫓は昭和時代に解体復元工事をしており、現在は内部が見学できるようになっています。3階建ての内部構造が見学できますが、階段と柱が邪魔で意外と狭かったです。

月見櫓1階四天柱

月見櫓2階四天柱

1階には解体工事の時の写真が飾っていて、当時の建築の特徴というものが説明されておりました。四天柱という通し柱がこの櫓の特徴で、建物の中心部に四角く配置され、それを1階から3階の最上部まで突き通し屋根を支えています。2階で上下2本を互い違いのように抱き合わせ、出っ張りを作りはめ込むようにつなぎ合わせてあります。金輪継という柱をつなぎ合わせる方法だとか。

披雲閣の南側には桜御門があり、藩主御殿の正門として使用されていて、他の石垣よりも大きな石を綺麗に成形して積まれておりました。身分階級が上である藩主の威容を出さねばという武士の気概でありますが、この見栄がただの形式になってしまい武士は時代遅れとなってしまいます。現在の日本人にも同じようなことがいえるかもしれませんね。

桜御門

焼失前の桜御門

桜御門は空襲で焼失してしまい、石垣にもところどころ熱により傷んだ部分が見受けられます。そのため、数年前に石垣の修復作業をして現在は完了し、次は門自体を復元しようとしております。
石垣はボルトや鎹で固定してまで元の材質にこだわっておりますが、門を新築してしまってはこだわりが薄れてしまう気がします。この焼失前の写真を飾るほうが味があって良いと思います。

桜御門を通り南へ進むと桜の馬場という大きな広場があり、その東に松平時代の大手門である旭門があり、ここに料金所が設置されていて東入口になっています。旭門の外側には、旭橋が斜めにかけられていて少しでも横矢がかけられるようにしており、門を突破した後には大石垣で組み合わせた枡形が待ち構えています。大手門だけに防御を意識した構成でありましょう。

旭門の桝形を西から

旭門の桝形を南から

なぜかこの大手門の枡形だけが破格の切石でもって造られており、他の場所の石垣とは一線を画しているので、明らかに違う石工集団が築いたものでしょう。これもどう見ても理由がありそうで、私としては水戸徳川家か、将軍家からの贈り物だったのではないかと思います。

三大水城と呼ばれる高松城。海のドラマはあまり感じられなかったが、天守閣や石垣など随所に物語がありそうである。個人的には高松城を大きく改修したという、頼重・頼常義親子に興味が湧いてくるのである。2人の「光圀によって変化した人生について」を考えてみたいのだ。
そういう私の思いとは裏腹に、高松市は3000万という懸賞金をだし天守閣復元を熱望していて、桜御門や旭門枡形なども修復作業中だ。物を修復することも大切だが、人間のドラマを見せていくほうがもっと面白くなると思う。水戸光圀という大きな素材を持っているのだから、それを存分に使っていくべきではないだろうか?「松平頼重・頼常義親子物語」を是非ともつくっていただき宣伝していってほしいものである。それこそ憎い演出を得意とする高松市の力が十二分に発揮されるのではないだろうか。

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