尼子山攻め


2019年02月

2年程前の事だろうか。赤穂坂越は大避明神の裏山である茶臼山に登ったことがある。
松の貧弱な樹勢の道を歩んで頂上まで行くと説明板が建っており、そこには茶臼山が山名氏の城であったことが書かれてあった。どんな地勢であったのかと地図を見てみると、すぐ北側に尼子山という山が存在した。山陰の大名である山名、尼子がこの地を舞台に何をおこなっていたのか?非常に興味をもったものである。
そんな茶臼山の木々の隙間からのぞき見える尼子山を仰ぎ見た。そこには誰にも属さんとばかりにいきり立ち、毅然とした山の姿があった。

・・・あれからしばしの時を経た、そして、再度この地に来ることと相成った。
尼子山よ、お前は今もあのころのままなのか?
移りゆく景色にそう問いかけながら私は坂越駅へと降り立った。(天孫降臨)
茶臼山より眺める尼子山

坂越駅より眺める尼子山
坂越駅から東の方へ目を向けてみる。
目に飛び込んできたのは以前よりもさらに毅然とした山容の尼子山であった。
あゝ、変わらぬお姿だ。
思わずため息をつき、腹の周りについてしまったぜい肉を眺めてしまう。人にとって残酷な時の流れも自然にとってはなんでもないただの一時なんだと思わされる。
そんな尼子山も500年程前には城として人に使われていたわけだ。
あゝ、なんという壮大なドラマなのだろう・・・、尼子山よ、ほんの一時でいい、君が見てきたものを語ってくれないか?

カシ男の脳内図 ※クリック拡大

尼子山は駅から徒歩で30分程時間がかかります。本来なら退屈な時間となるところですが、尼子山と語らう30分なのでまったく退屈することはなく、むしろ楽しい時間となります。
橋を渡って千種川沿いの堤防道路を歩き高野集落へと入って行きます。その集落の裏山に尼子神社があり登山口となっています。

新築されたであろう尼子神社

絵馬は古い物が飾られている

尼子神社の由来書きがないのでよく分かりませんが、古そうな絵馬もある事から歴史がうかがえます。

尼子山の登山道はきちんと整備されております。高野自治会の看板があるので地元の方が足しげくお詣りに通っているのでしょう。
そんな歩きやすい登山道をしばし歩くと尼子将監のお墓があります。何故こんなところに囲いをしてまで作っているのでしょうか?

将監だけではなくいくつかお墓がある

将監の墓と基台の岩が少し違う?

将監のお墓には、将監のみならず5つ程墓のような碑のようなものが建っています。石饅頭のようなものも混じる中、尼子将監の墓だけがしっかりとした文字で書かれております。
将監の墓の基台には「大永元辛巳正月十一日」と書かれていました。大永年間とは1521年から1527年で、まさにこれから戦国時代の幕開けと言われるような時代ですね。
そして、墓の側面には「釋 井山将監 井山孫兵衛 井山五兵衛」と名前が書いてあり、その下には「祐甫 妙玄 祐玄 妙貞」と書いてあります。逆の側面には「祐誓 妙誓 祐卜 妙称」と書いています。
井山将監という方のお墓で「祐や妙」は呪文でしょうか?その井山が尼子なのかどうかがさっぱり分かりません。もしお分かりになる方がいらっしゃいましたら掲示板でご指摘いただければ幸いです。

ハゲ山より火事?野焼き?を望む
将監のお墓から少し行くと道が分岐していてハゲ山に行くことができます。そんなにハゲているわけではないけども、木が少なく見晴らしがいいところでした。
そんなところで景色を堪能しているとパチパチと音が聞こえてきて、その音や赤いものがみるみると広がって行きました。消防車も出動し野焼きの火が大きくなりすぎてしまったようです。

ハゲ山付近からは急な登り路となって行き、あっという間に景色は一変してしまいます。それまでは灌木が生えそろっていたのに、シダや松などがところどころに生えているだけの状態になり、見晴らしが良すぎるので少々怖い感じがします。
そんな岩場のような道ですが、登りにくそうなところにはロープがしてあり、登る事にはまったく問題はありません。途中いくつか見晴らし台のように休憩場所も設けられており登るのが楽しいところでした。

見晴らし台より南側の眺め

顔のような岩が集落を見守っている


南側だけだと思っていた絶壁ですが、東側もかなりの絶壁となっておりました。この絶壁のところを攻めるのはさすがの義経でもできなさそうですし、逆落としも無理な気がします。つまり、南側へ向けて警戒していたわけではない、ということかもしれませんね。

東側もかなりの急斜面

石の鳥居をくぐると平坦になっている

頂上にも尼子神社

麓の神社と同様まだ新しい

頂上の鳥居をくぐったところがかなり広い平坦地となっていました。一番上なのでここが主郭となるのでしょう。
尼子神社の隣に尼子山城跡の碑や三界萬霊碑が建っておりました。萬霊碑は最近建てられたもので、大和高田城跡の萬霊碑とは重みが違う感じがしました。新築をしただけだと風景になじまないので古いものも残しておくべきだと強く感じます。

こちらの広々とした主郭跡でオヤツ用に買ってきたおにぎりを食べます。すると、どこからかガヤガヤと騒々しい音が聞こえてきます。なんだろう?と思っていると団体の登山者達が登ってきていたのです。
ベテランのような雰囲気の人達も私達が先にいた事に少し驚いていたようでした。少し挨拶程度の会話をして、湧き水がある北側へと降りて行きました。

主郭から北へ一段下がった所

北へ二段下がった所

北へ三段下がった所

西へ一段下がった所

北側への歩みを進めた時に少し違和感がありました。南側とは土質がまったく違うのです。太陽の光のせいなのか水分のせいなのかは分かりませんが、南側はサラサラだった土が湿り気があり層が厚くなっておりました。植生も違っていて杉のような背の高い木なども生えておりました。
そして曲輪のように踏み固められた平坦地が道に沿って段々に存在していました。それが三段ほど続き、それよりも下は藪のようになっており見通せませんでした。「尼子氏の合戦と城郭」という本ではもう少し下まで曲輪が続いているように書かれていましたが、私ではちょっと確認できませんでした。
そんな曲輪を5分程降りて行くと、湧き水地点へと到着します。チョロチョロと水が流れていて少し溜まっているという程度の湧き水でしたが、ここで生活するのならば大切な水であったことでしょう。
そこから道は東へと進んで行き、赤穂浪士の飛脚が通ったと言われる高取峠へと到達するようですが、今回はここまでにしておきます。
再度登って一段目の曲輪より大岩側の曲輪へと移動します。西側も北側と同じように踏み固められた平坦地が存在します。大岩のある曲輪とあわせて、西側は二段になっておりました。

大岩の周辺を探索していると団体の登山客がやってきてこの大岩に登り始めました。!!と思って見ていたのですが、普段からこの山に登っているようで昼飯も大岩の上で食べているような話をしていました。トントンと軽い足取りで登って行き、2人、3人とそれに続いていきます。こんなところ登る人がいるのかと感心したのですが、人が登っているのを見ていると非常に登ってみたくなるものです。
よく見てみると岩には登り路のようなものがありました。しかしいかにも踏み外しそうな危なっかしい道であります。登るときはまだしも降りるのが非常に難しそうなので今回は見送ることに致しました。下から見ていても4〜5人くらいは休憩できるような広い場所のようでしたので、次回は登って弁当を食べてみたいと思います。

下からみた大岩

大岩へ登る道


恐怖の大岩を離れると雨がぽつりぽつりと降ってきました。岩に登らなくて良かったとホッとする反面、雨が降ってくる前に下に降りなければと先を急ぎます。登って来た道を降りてもつまらないので西側への上高野集落へと降りる道を選びました。
西への道は急な斜面をつづら折りに降りる道でした。岩があちこちに散らばっており非常に歩きにくい道でしたが、本来はここが尼子山への道で、道を整える為に使っていた石垣が壊れたものだと思います。その証拠に麓には神社跡のような場所がありました。ここにもおそらく麓で拝む用の尼子神社があったのではないでしょうか。

西側へ降りる道は岩が散乱していた

麓には神社の跡のようなところも

降りきると民家の裏のような場所へと出てきて登山口の看板が建っています。そこには毛利に背後から攻められて尼子山城が落ちたと書かれていました。曲輪が北側に向いていた事を考えると背後からって南側の峻険な道から攻めたということでしょうか?地味なイメージしかない毛利という殿さまは、実はとんでもないヤツだったのかもしれません。

尼子山は外側から見ても美しく飽きない容姿でありますが、登ってみても非常に楽しいところでありました。岩っぽい道を登って行き、外の眺めが一気に変わっていく。反対の北側では土質も変わり、頂上の眺めのいい大岩なんかも存在しています。
城跡じたいは単調な作りで曲輪が段々と存在するだけのところだったと思いますが、私のような素人にはそれがかえって分かりやすいかとも感じました。
位置的にどうなのかと考えると、北側と西側に曲輪がある事から千種川を下ってくる敵を重視していたのかと思います。そんな相手の警戒の裏をかいて、あえて峻険な背後から攻めたという毛利はかなりの人物であったことがうかがえますね。
そんなドラマになりそうな舞台があるにもかかわらず、物語の1つもないというのが不思議な感じがします。将監の墓があったりするのですが、なんらかの言い伝えがあったと思われます。そういう事ももっと表にだしてアピールしていってもらいたいと思いました。

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