飛鳥城攻め


2019年03月

飛鳥城の奥、飛鳥坐神社と甘樫丘の間を少し登って行くと飛鳥京の推定地があり、蘇我氏の住居とされる甘樫丘の南麓には、聖徳太子が生まれた伝承を持つ橘寺が建つ。この辺りが飛鳥時代の中心地だったとはいえ、飛鳥城が築かれた時代はもっと後世に降る。一体、誰によっていつ造営されたのだろうか。この疑問に対する「結論」はいまだ見ていない。それでも、飛鳥城が地勢においてどういう機能を果たしていたか我々が想像することは許されるだろう。
飛鳥城周辺の地図 ※クリック拡大

航空地図だと三角形に見える丘なのだが、密集している竹藪のせいで、実際にこの目で見ると前方後円墳のように細長くうねりのある丘に見える。
さて、どこから登ろうか思案しながらウロついていると、飛鳥城のすぐ下の家の御主人が門先に出ていたので声をかけてみる。その方は長くこちらに住まわれているようだが、裏山に登ったことはないと言う。それでも「砦跡」という認識はあったようだ。そう、実際に登ってみると「城」というよりは「砦」だと実感するのだ。我々の行動に興味を持ったのか、心配してくれたのか、登り口を案内してくれながら付いてきてくれた。しかしサンダルを履いていたので、さすがに竹藪の中には入ろうとはしなかったのだった。

飛鳥城への入口

この竹藪から入って行く


「裏山」と言ってもいいほど平地に近い丘に「砦」を築いたのは、集落がそばにあるからなのではないかと思ってしまう。そうなると、「砦」は集落の延長上にあると見ていいかもしれず、『多聞院日記(永正3年9月27日)』に記述が見えると言う「多武峰ふもとの小屋指懸 、一揆之小屋二三ケ所追落了」というふうに「小屋」と表現するのもうなずける。それは、我々が見ているこの「砦」のことだったのではないだろうか?集落の延長であるとすれば、砦は、どういう機能が期待されていたのだろうか?
飛鳥城の図(城郭本を参考に作成) ※クリック拡大

飛鳥城の地形の概略としては、北と南に土塁(D・B)と堀(H・C)が横たわり、東に帯郭状の平地(G)が見下ろせるが、西は斜面になっていて我々は竹やぶを踏み越えて西からC付近へ入って行った。意外に開けた場所で、土の盛り上がりがしっかりと確認できる。

Cはかなり深い堀になっている、という事はB土塁も高いという事だ。こんな小さな丘に、こんなしっかり形を残した遺構を見る事が出来るのだ。
Cから北側のFへと手を付きながら上がって行く。高さが2〜3mはあろうかという急斜面だが、竹を足場に利用しFへと登り切る。
平坦にならした台地になっているEとFは、高低差がありEのほうが少し高い。その高さは目視で判明できるほどで、わざわざ高低差を作ったというよりはそういう地形だったのかもしれない。

1.B(土塁)とC(堀)を西から

2.FとEの高低差を北より確認

Fは、主郭であるEに対する曲輪で、Gと対照位置にあると見ることができる。Eに上がってG方面を見下ろすと、確かに幅広い帯状の平地が見えるのだが、その下には畑が耕されたり駐車場が敷かれているため、F・Gはある程度の改変を受けていそうである。

3.Eを北から

4.Eから東のGを

Eにはさらに盛り上がった箇所があり、それがAである。写真5を見て分かるように、意外と高いのである。Eから見てAは緩やかにあがっていく感覚の程度のものなのだが、Fからだとかなり高く見上げることになる。城郭本ではAを「櫓台状の遺構」と言う風に表現されており、北側を意識した人為的に盛り固められたもの、と推測できる。

5.Aから北西

6.AとFの高低差、北西から

もし、そう推測できるのであれば、北側に設営された土塁Dや堀Hも、北側を意識したものと目される。しかし、北側の堀Hよりも大きく穿たれた南側の堀Cを見てみると、南側に対する意識の高さがいっそう強く見えるのである。つまり、この丘だけでどこから攻められても対応できるように造られていたということではあるまいか。

7.D(土塁)とH(堀?)を西から

8.Dのさきっぽ


飛鳥城は砦ともいうべき小城であるが、弓が主である当時の戦い方を想像してみると、大きな土塁と堀のようなものがあればそれで事たりたのだとも思える。
明日香城塞群とも言われるように付近にはいくつも砦があり、城郭本には遺構として名前を挙げていないが、甘樫丘や飛鳥坐神社などの小高い丘も砦として使用し、機能していたのかもしれない。
平野部分では古くから都市として整備された飛鳥京があって道路網が発達していたはずである。その為、砦同士の連絡をより広範囲にできた基盤があり、全体として1つの城になっていたのではないかと考える。先頭で引用した「多聞院日記」には続きがあり、「2、3の小屋を落としたが、合戦では負けた。多くの死者怪我人を出し、その夕方本陣の天神山へ帰る。」と、幕府軍(澤蔵軒)を一度は撃退しているのである。2、3の砦が独立してあったのではなく、他の砦と連動していたことを示しているのではないだろうか。

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