長谷堂城攻め


2017年09月

関ケ原の戦いが行われていた頃、東北においては伊達・最上軍と上杉軍が争っていた。その中の一つに長谷堂の戦いがある。
上杉軍は西からと南からの両面作戦で山形盆地を攻める。南からは上山城でつまづいていたが、西から来た直江軍はすんなりと長谷堂城まで迫って来た。
山形城の西南に位置し、南側の山塊から平地に少し飛び出してしまった山が長谷堂城。城の周りには田がたくさんある低湿地のようなところだが、昔の田は膝や腰くらいまで浸かってしまう深田というものが多く、それも含めて防御ラインとなっていたかと思われる。

長谷堂の戦いの図 ※クリック拡大

直江本陣から長谷堂城

長谷堂城本丸から直江本陣

直江が陣取った本陣と長谷堂城は目と鼻の先にある。500mくらいしか離れていないし、当時は山の木を刈って火攻めに備えていたので、本当に丸見えだったと思う。
長谷堂城は志村伊豆守光安という将が守っていたが、直江軍二万に対し、志村軍は五千とも千とも言われているようだ。とにかく兵力が隔絶していたことだけはたしかだろう。

縄張り図 ※クリック拡大

神々しい長谷堂城

長谷堂城の周りは民家が立ち並んでいた。田のところよりも山麓の方が地盤がしっかりしていることの証明といえようか。
縄張り図では削平地ばかりだが、緑が豊かなところだったので見た目では分からなかった。観音坂口から入り、八幡崎口へ通り抜けていった。

1.山頂広場下の曲輪と切岸

2.山頂広場

道はかなり整備されており歩きやすく、ところどころに説明板も設けていてイメージがしやすかった。
山頂広場からは山形盆地が一望でき、直江軍も山形城の動きもすべて見通せる状況だった。(本丸跡とか主郭跡とか言わないのはどうしてだろう?)

3.頂上へ入る桝形虎口

4.横矢掛りと言う通路

頂上本丸部への入口は「桝形虎口」となっていた。曲げるのではなく一段低くして集中砲火を浴びせるそうだ。
その虎口へつながる道には「横矢掛り」という通路がある。道を曲げて作り、帯曲輪から矢を射やすい地形を作り出している。

5.シャガと言う草

6.帯曲輪群?がある場所

城の斜面にはシャガという草を植えている。このシャガがあると滑りやすくて登りにくくなる。(試してないから分からないが)
帯曲輪群は直江本陣を睨んでいて、段々畑のようなものが12段続いていると書かれていたが、私が見た時はまったく分からなかった。
曲輪が南側や東側に多く作られているところを見ると西や北から攻められることは無かったのだろう。この帯曲輪群は直江用にこしらえたものらしいのだ。直江の攻めが意表だったことが分かるのではないか。

● 合戦の経過
9月15日 最上義光からの援軍が直江軍に襲われる。戦死者200〜300人。
  16日 長谷堂城軍が直江軍の春日右衛門の陣を夜襲。
  17日 上山において最上軍が大勝。その知らせが届く。
  18日 直江軍が総攻撃。長谷堂城軍は弓鉄砲で追い払う。
  22日 伊達の援軍が山形に到着する。
  29日 長谷堂城周辺で白兵戦。関ケ原で徳川軍の勝利が伝えられる。
10月1日 直江軍撤退。最上軍・伊達軍が追撃し激戦となる。

頂上の説明板で書かれていた事から色々と推理してみる。
直江が出陣したのが9月8日で、ここまで一週間で来ておきながら長谷堂を前にして2週間も足踏みをしてしまっている。初日にはいきなり最上軍を強襲し意気が上がっていたはずなのに。
長谷堂城を抜いてから安全安心に山形城を攻めようなんてリスクの伴わない攻め方は考えられないので、初日に最上の援軍を叩いたのならばそのまま追撃し、長谷堂城には抑えを残して、という戦いは兵力的に十分可能であったはず。それをしないという事は、初日に最上軍を撃破した武将に手柄をとられたくないとか、そんなことがあったのかな?と思ったりもする。
さらに気になる事があって、直江軍には前田慶次や杉原常陸などの豪傑が加わっていて、退却戦では大活躍したという。それなのに攻めている時にはまったく名前がでていないのはなぜだろう?
おそらくは直江山城守兼続は周りの人間にあまり好かれていなかったのではないか?と思う。特に能力や功績のある、前田や杉原らからはより嫌われていたのだと。それゆえに軍隊としてのまとまりを欠き、山形城を目の前にして金縛りにあってしまったのだと、そう考える。
そして、兼続が二万以上もの大軍を率いていた事を考えてみると、景勝の権力のかさの下にいてかなり横暴だった可能性も考えられるのではないだろうか?これも周りの人間に嫌われる理由となりそうだ。

以上のような事から直江山城守兼続という人物のイメージが私の中にできあがった。
頭が良く決断力に富むので権力者のお気に入りとなり、それがゆえに横暴になり、同僚たちからは嫌われ、孤立するはめになった。
そして気宇壮大で媚びる事がなく、プライドが高く柔軟性に乏しい。それがゆえに戦下手であり、人心をとることが苦手であった。

これらを考えた時、石田三成という人物と似ていたのではないかと思われた。石田は豪傑と言われる人にはとかく嫌われていて、その話が色々と後世まで語り継がれているが、直江も景勝が先に死んでいれば同じような事になったのかもしれない。



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