鉢伏山攻め


2018年03月

栄光の古墳、栄光の石英安山岩、栄光の鉢伏山・・・・、またここに来ることになったのか・・・・、あゝ鉢伏山よ

「鉢伏山北東隠し古墳1号」への入口
もう何度目の訪問になるのだろう?歩き慣れた鉢伏山への道だ。軽快なステップを刻み弾む気持ちを抑えきれずに、廃墟と化したぶどう畑に足を踏み入れる。そう、ここは鉢伏山、どこにでも古墳が存在する可能性があるのだ。
そんな寄り道を楽しみながら我々歴史調査し隊は「鉢伏山北東隠し古墳1号」への入口へとたどり着いた。別段目印などつけてはおらぬ、感性がここだぞと語りかけてくる。我々は偉大なる先人達に案内されるがごとくこの隠し古墳へと導かれていくのだった・・・。

飛鳥千塚古墳群と言われる一帯にはたくさんの古墳が散在する。羽曳野市文化財課では記録目的に分布調査をしていて、発掘調査などは、金という現代の魔術を吸い寄せる事ができる古墳のみを対象にしているようだ。そして記録すらされていないものも多数あり「鉢伏山北東隠し古墳1号」もその1つとなるだろう。円錐状にそびえる鉢伏山、その裾部が回りにに広がりをみせ北東へ伸びる。その尾根が平らになった部分に・・・・この古墳があるのだった!

隠し古墳に近づくにつれ土を踏む足にも力が入る。5分も登れば古墳は存在する。最後の一息は駆け上がるように登り私たちは再会を果たした。
前回来た時と変わらぬ姿がそこにあった。大きい岩が数個あり、その下には少し小ぶりになる岩が散乱している。南側に開口部があり、西側の壁面は現存し東側が崩落している。一番目立つのが天井岩と思われる巨大な岩だ。西側の壁に切り欠けで乗っていて、東側の崩落部分はおそらく前にあったであろう天井岩にぎりぎりひっかかっている。これでなんとか古墳という姿を保っているのだ。手前に落ちている岩や後ろに落ちている岩も天井岩に見えるが、ひょっとするとこの巨大なる岩と一枚岩だった可能性も考えられる。中に関しては見える範囲では3段〜4段程度の石積みだがもう少し深いと思う。
何か分かるかもしれないのでおおまかにサイズを測っておいた。石の外側で南北の長さ・350cm、石の外側の幅・190cm、見えてる分の高さ・55cm、岩は鉢伏山の母岩と同じ岩の石英安山岩。素人目だが石英はあまり入っておらず、風化しすぎているからかモロモロ感があった。
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北(後ろ)からの眺め

東(右横)からの眺め、こちらが崩壊

南(正面)より、天井石が崩壊

正面アップ。切り欠けだと思うが

左側の壁面の石積みと天井石の切り欠け

隠し古墳1号のご近所さん

サイズを測り終わり周りを見渡してみると、この古墳から流れ出たと思われる岩が転がっていたり、違う古墳ではないかと思われる巨石群が、自分の存在を示すかのように土から顔を出している。
私、カシ男が回りを探索しいる間、相棒であるカシ女は古墳の掃除をしていた。彼女なりのお礼の仕方なのであろうか?落ち葉を片づけられすっかり綺麗になられた古墳にお別れを言い先へ進むことになった。

今回はマップを持ってきていたのでこのまま鉢伏山へ登る。円錐状の山頂に登るのはただ上がっていればいいので簡単だ。
あまり見かけなかったが写真のような岩群があり、これが先ほどの古墳と同じ岩で、石英安山岩と言われているが、観音塚古墳に使われているものとは少々違いがある。それは後に示してみよう。

鉢伏山の母岩、石英安山岩?

鉢伏山上庭園から見る雨乞山

古墳と別れたせいもあり落着きを取り戻した我々は、粛々と鉢伏山上庭園まで登り、いつもの通りここで握り飯を食らった。今回は浄土池?(水たまり)のほとりでの休息だ。その汚い池?を見ながら、ここに握り飯を落としたら大変だと手が震えてしかたなかった。
前回来た時はここに到着して感動し、ここの松?(架空)に寄りかかり涙したものだが(史跡・カシ男の涙松?と言う。詳細は鹿児島旅行記7日目にて)、今回はなんら感動はなく、モクモクとただモクモクと食らい、次の目的地の雨乞山へと照準を合わせるのであった。

ここから雨乞山に行くのが難しく、西の霊園側は急斜面で木々が生い茂っているので、体が自然と東へ東へと進んでしまう。しかし今回はなんといってもマップがある。私はニヤリとしながらマップを確認し、迷う事のない優越感に浸りながら確実なる道を歩んでいった。

雨乞山から堺方面
ニヤリとして調子にのっていたのだが、結局は少し迷い気味になりながらの到着となった。実際に見た尾根の感覚と地図の感覚が違っているのだ。国土地理院どうなっているのか!と、怒鳴りつけたい気持ちを抑えながら登っていき、そして、あの見る事しかできなかった雨乞山・・・、涙の雨乞山・・・、あゝ雨乞山・・・。の山頂についに到着しました。

山頂付近には誰かが時々来ているのか、テーピングがしてあり、その先が写真の見晴らし台だった。ここは古代の官道である竹内街道を見張っていたであろう場所か?雨乞山という名前からすると違うようだが、西側への警戒にはとても便利な立地のような気がする。

雨乞山は鉢伏山の南方に伸びる尾根から派生し、少しだけ隆起し山の形になっているところだ。雨乞山古墳の別名も鉢伏山南峰古墳と言う。西側はブドウ畑の名残が少しあるものの、霊園や公園として大規模に開発されており、古墳の残り香があまり感じられなくなっている。そして東側はブドウ畑のビニールハウスが現役で稼働しているところが多くあり、かなり通りにくい場所となっている。観音塚古墳から上がれれば簡単なのに柵がしてあって入れないのだ。しかしそのブドウ畑のおかげでこの辺り一帯の古墳はなんとか生き残ることができているのである。
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ついに到着雨乞山古墳

これだけのものを保存できる河内飛鳥

水が溜まっていて高さが分からず

鉢伏産石英安山岩

この山頂に上がれば簡単に分かると思っていたが、草が生い茂っていた為見つけるのに時間がかかった。オウコ古墳もそうだったがようやくたどり着いただけに思わず声が出てしまった。しかもここは屋根が開けられてしまっていて中がよく見える。その点でとても価値のある古墳だと言える。河内飛鳥の文化財保存力はなみの市町村では到底真似できぬだろう。
ここも寸法を測ってみる。材料は隠し古墳と同じ鉢伏山の石英安山岩で、石槨と石室に分かれている。石槨は奥の石と手前右、手前左の3つの岩で作られていて、石の外側の長さで230cm、石の外側の幅が120cm、中の幅が70cm。
石室の方は右壁と左壁それぞれ3つづつの岩で作られている。こちらも同じようなサイズで切り分けていて、長さが240cm、石の外側の幅が150cm、中の幅が115cmだった。
さらに奥に転がっている屋根のサイズが石槨部の内径のサイズとぴったりあうように作られている。その技術もすごいものだが、まだ切り欠けの組み合わせがないという事を考えると、観音塚古墳やオウコ古墳よりも前のものになるのだろう。
謎はまだまだある。この辺りで私が見た古墳はすべて同じ方向に開口部がある。磯長谷か二上山方面を見ているのか?それとも遠く大和飛鳥を見ているのか?
かつての長老たちと同じように私はこの場所で二上山に向かい合掌をした。この谷で生きてきた人たちの造形品を残してくれている河内飛鳥に感謝の気持ちを込めて。

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鉢伏山石英安山岩

鉢伏山石英安山岩

寺山石英安山岩

寺山石英安山岩

鉢伏山の母岩に転がっていた破片と寺山の上部に転がっていた石ころを拾って比べてみた。
鉢伏山の岩は斉明天皇陵と噂される「ケンゴシ塚古墳」の外周岩として使われるくらい神聖なものらしい。寺山の岩は「観音塚古墳」に使われているのだが、私が見た限りではちょっと判別がつかない。
そして風化している面を見てると鉢伏と寺山の区別がつかないのだが、こうして割れたものを見てみると、石英の粒の差が一目瞭然。粒々しているのが汚く見えて、寺山の石英安山岩は格が下になってるのかもしれない。この疑問に対する答えもやがてはでるだろう。

参考本:「羽曳野市史」「石の考古学/奥田尚」

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