岩橋古墳攻め


2018年10月

本日は和歌山へとやってまいりました。「紀伊風土記の丘」という場所の岩橋千塚古墳群がお目当てであります。2時間ほど電車の中からの車窓を楽しみ、うつらうつらしながら懐かしのJR和歌山駅へと到着。
そのJR和歌山駅に一番近いであろう山が岩橋千塚古墳群で、そこが風土記の丘として整備されて、古墳の保存と展示をされております。また和歌山では身近で手軽なウォーキングコースとなっているようで、たくさんの方々が散歩をして古墳の風景を楽しんでおりました。
そんなふうに人々に親しまれている岩橋古墳群は、石室内の見学ができるようになっていてウォーキング古墳が好きな方も思う存分に楽しめるところでした。

岩橋千塚古墳群は5世紀から7世紀にかけて築造された群集墳で、この周辺で800基、公園内だけでも430基もあるそうです。この古墳群は石室が特徴的で、石棚・石梁を備えつけております。この両方を備え付けたものを「岩橋型横穴式石室」と呼んでいます。
岩橋古墳の図 ※クリック拡大


風土記の丘の入口である博物館を出て坂道を上がっていくと、竪穴住居の展示や旧家の住宅などが展示されている。昔は気づかなかった茅葺きの屋根を下から見てみると、ただの荒いワラが揃えられることもなく使われていた。これを見ると筑波葺きの5層〜8層というのは手がこんでいるのだなと思った。
さらに登っていくと見えてくるのが「前山A地区」の古墳群だ。季節がらまだまだ青草が残っていて墳丘の形の判別がつきにくいところも多くあるが、モコッとしている部分を見ていると古墳があることを認識させられる。そんな墳丘だけの姿のA121号墳とA9号墳を見学する。見ていてもまったく分からないので、その付近に転がっている結晶片岩を観察してみた。木津川で見た泥岩質の頁岩なども薄い片岩でパッと見は同じ系列なのだが、泥の流れたような目があり、柔らかそうで鈍い色をしていた。しかし、こちらの結晶片岩は見るからに硬そうで、流れるような目も直線的であり、少し光る感じの色合いに見えた。

さて、古墳へと目を移してみよう。A9号墳の墳丘から少し上がった所にあるA13号墳が石室を見れる第一号の古墳であった。しかし、現在は立ち入り禁止となっていて石室内へ入室することができない。中を見なくても薄い片岩が数多く積まれているのが分かる。
※「」内は説明板より抜粋

A13号墳・正面

A13号墳・正面アップ

「6世紀後半につくられた直径18mの円墳で、長さ約5.8mの横穴式石室がある。玄室には石梁2本、玄室奥に石棚1枚があり、この石棚と石梁の両方を使用した横穴式石室は岩橋千塚周辺でしかみることができない。玉、馬具、鉄槍、須恵器片が出土。入口の通路の下に排水用の暗渠を確認。」
ここが岩橋型横穴式石室の典型的なもののようなのに入れないのが残念。少し気になるのが排水の事である。城の石垣なども排水には苦労するようなので、古墳ももちろん同じはずである。どういった仕組みでどこへ流していたのだろうか?

A13号墳のすぐ上にA17号墳が存在する。墳丘が四角に成形されているのが目新しい。その真ん中に石棺がちょこんと存在している。

A17号墳・箱式石棺

A17号墳・方墳の形

「明治40年に大野雲外が発掘調査を行った。5世紀の築造と考えられる一辺14mの方墳で、中央に副室のある箱式石棺が配置されていた。主室から2本の直刀、副室から衝角付き冑が発見されている。」
石棺の長い方が主室で刀が見つかり、短い副室からは冑が発見。仕切り板をつけて2つに分ける事になんの意味があるのだろうか?古墳とは不思議なものである。

続いては石室内が見学できるA24号墳。これを見ると石室にたどり着くまでかなり掘らないといけないことが分かる。そしてせっかく入れる石室だが狭くて入りずらいのが難点。

A24号墳・全体

A24号墳・内部への入口は2つ

A24号墳・天井岩

A24号墳・上穴から中を

「直径14mの円墳。石室には石梁が一本設置されている。入口の上部の穴は盗掘抗と推定されている。石組のない墓道部分が長く残っている。」
出土したのは壺だけのようだし、石組のない墓道も理由がよく分かっていないのだろう。中途半端な説明文となっている。しかし、中に入ると 天井がずっと高くなっており、片岩がひたすらに積み上がっている。盗掘抗からの光を取り入れる事によって明るいお部屋となっているが、梁の部分が少々邪魔かもしれない。

A24号墳のすぐそばにA23号墳がある。こちらも同規模の大きさと同じような見た目の石室となっている。

A23号墳・全体

A23号墳・入口

A23号墳・石室奥壁

A23号墳・石梁と石棚

「直径約14m、高さ約3.5mの円墳。内部は石棚と石梁を設け、床は板石で区画している。須恵器が発見されている。」
A24号墳は壺だけで、こちらは須恵器だけ。ひょっとすると、さすがの盗賊も全部取るのはしのびなくて、壺1個だけ置いていったのかもしれない。それはそれで面白い情景が想像できるではないか。
狭い入口を通り抜けると中は広々としており立っても全く問題がない。梁は少し邪魔だが棚には色々と小物が置けそうである。寝る為に帰ってくるだけなら十分なお部屋なのではないだろうか。

A23号墳からしばらく公開石室はないので、ボコボコしている墳丘を見ながら散策をする。そのまま進み、見晴らしのいいところまで登るとA32号墳が存在した。

A32号墳・全体

A32号墳・入口

A32号墳・内部の高さ

A32号墳・天井岩

「直径約15m、高さ約5mの円墳で、全長約4.4mの横穴式石室。玄室から直刀1点、鉄鏃片3点、羨道から鉄片が出土。」
この古墳の場所の見晴らしが良いので、説明板にも大正7年頃と現在の写真が載っていた。当時は一面が田んぼだったようだが、今は住宅が広がっている。そんなに人は増えてないと思うのだが・・・。
こちらのお部屋は梁も棚もない広々とした空間となっている。レイアウトを自分で決めれる自由さが売りではないだろうか。ただ、仰向けに寝る時に天井岩の色が違うのが気になって仕方がない。神経質な方には向かないお部屋である。

A32より東へしばし降っていくとコンクリートで舗装された異質の古墳が見えてくる。これがA地区最大のA46号墳である。最大の古墳ならもうちょっと名前考えてあげてもいいと思う。

A46号墳・入口正面

A46号墳・玄室から羨道

A46号墳・玄室の石梁

A46号墳・奥壁と石棚

「6世紀後半に築造された前山A地区最大の円墳。直径約27m、高さ約8m。長さ8.5mの横穴式石室で玄室には石棚と4枚の石梁がある立派なもの。入口は扉状の板石で閉じられていた。墳丘上から新羅系陶質土器の高杯4個出土。」
曲がったような石組の入口、今にも崩壊しそうだが、それをなんとかコンクリートでつなぎとめている。上部には先ほどと同じように盗掘抗と思われる部分がある。一人分ギリギリ入れる程度の穴で当時は土もそこまでしか掘らなかったのだろう。「オヤビン!中はかなり広いですぜ!」と言いながら入って行ってそうだ。実際、中はかなり広くなっていて、石梁も4本と豪華な造り(豪華なのか?)になっている。棚もかなり大きくベッド代わりに使えそうでもある。若干暗いものの表には電気のスイッチもあるので読書も可能だ。数分で消えるので何度も表へ出る事になるのだが。

A46号墳から少し上がった所にA47号墳が存在する。こちらの古墳もちょこんと鎮座している。

A47号墳・竪穴式石室

A47号墳・竪穴式石室

「直径約12m、高さ約2.5mの円墳で、緑色片岩の板石を積み上げた長さ2.04m、幅0.92m、深さ0.65mの竪穴式石室が作られている。石室の中から人骨片が発見されている。」
先ほどのA17号墳も似たよな感じだったが、積み上げていないので石室と言わず箱式石棺と言ったのだろう。不思議な事だが、突然緑色片岩という岩石名を使いだし、細かくサイズを測っている、なぜだろうか・・・。それと人骨片が発見されたとのことだが、大部分は持ち出されてしまったのだろうか?また、他の古墳に石棺があったのか無かったのかなどもとても気になる。おそらく明治時代よりの調査によって、記録があいまいな状態になっているものと思われる。昔の人はおおらかだったのだ。

また少し上がって行きA56号墳に到着する。片岩の積み上げ入口もかなり見慣れた光景になってしまった。

A56号墳・入口

A56号墳・石室内部の壁面

「直径約13mの円墳。緑色片岩を積み上げた全長3.88mの横穴式石室が入口を東の谷に向けて作られている。」
またもや緑色片岩で作られている石室だ。入口は狭く中が高くなっているのは他のと同じだ。そしてここには石棚や石梁が無い。石積みも少々荒い気がするのは気のせいだろうか。

もっこりもっこりとした古墳の合間を散策道が通っている。草が枯れかかり墳丘の形が分かりやすくなっている。こんな楽しい道を散歩していると公開石室がところどころにあり、ウォーキング古墳としては最適だと思った。そしてA65号墳へと到着。

古墳がある風景

A65号墳・竪穴式石室

「直径約17m、高さ約5mの円墳。2基の竪穴式石室を持っていて、結晶片岩を積み上げて作られている。5世紀後半から6世紀の築造と推定され、南側の石室から鉄剣が出土している。」
こちらは結晶片岩と名前を変えているが、緑色片岩かどうかわからないということか。2基の石室があると書いてあるが、1基しか存在しなかった。そしてここからも鉄剣が出土しているようだ。先ほどまでの直刀とは違い、鉄剣というからには私たちがイメージする剣に近くなっているのだろうか?
もちろん寝るだけならここでも十分である。

A65号墳の墳丘から降りればすぐそこにはA67号墳が存在する。大きい通りの裏が入口になっていて少し分かりにくかった。

A67号墳・正面より

A67号墳・石室内部

「直径27m、高さ6m、A46号墳と並ぶA地区最大の円墳。玄室長さ3.8m、幅2.3m、高さ3.2mあり、石棚と石梁2枚のほかに、床面に埋葬する為の区画(屍床)が作られている。玄室の中央に玄室前道があることから6世紀後半頃の古墳と考えられる。」
看板の写真を見てみると石棚の下に屍床と書かれている石組が設けられている。遠目では分かりにくいのだが、撮った写真にも一応写っている。しかし、ここから人骨は出ていないようなので持って行かれたのだろう。そして、ここがこの古墳の一番の見どころなのだが、羨道部分がかなり歪んでしまっており崩壊寸前を思わせる。檻ではなくこの曲がりっぷりを目に焼き付けるべきであろう。

A67号墳よりかなり上に登りほぼ頂上付近の稜線コースへ到着。そこから少し上がるとA2号墳が存在する。

しっかりとした散歩道

A2号墳・ガラスケースの中に

「直径約10mの円墳。横穴式石室の玄室は、長さ約1.0m、幅約1.9mと横に長い特徴を持つ小規模なT字型石室である。この石室の形は岩橋千塚古墳群では珍しい構造。出土した須恵器から6世紀末に作られたと考えられる。」
ガラスケースに石室が収められてしまってよく見えなくなってしまった。なぜガラスケースにしたのかその説明が欲しい気がする。確かにこの石室はちょっと違う。羨道に対して玄室は横長になっている。今までは縦になっていたのにだ。そう考えるとこの古墳は新しい技術を取り入れたものかもしれないし、古代の安藤忠雄かもしれない。

A2号墳の次は岩橋古墳群で一番の名物である将軍塚古墳だ。ここからはB地区となっているが、どんな理由で分けているのかは定かではない。

将軍塚古墳・入口と説明板

将軍塚古墳・羨道から玄室

将軍塚古墳・玄室の天井

将軍塚古墳・玄室から羨道

「6世紀後半に造られた墳長42.5mの前方後円墳で前方部と後円部の両方に横穴式石室が作られている。公開しているのは後円部の石室で玄室長3.3m、幅2.2m、高さ4.3mあり、岩橋古墳群の中では天皇塚古墳に次いで天井の高い石室。盗掘を受けていたが銀環、水晶製平玉、やガラス製の小玉、梔子玉、須恵器、土師器、馬具が出土。」
将軍塚の入口もまた異質なものだった。トンネルに入り異次元空間を抜けると羨道があり、そこには蓋石が置かれている。そして玄室へと到着する。玄室はさすが4.3mもあるだけにかなり高い。上に穴が開いて電線通してるのも異質だ。壁面の片岩を見ていると今までのものよりも形が整えられていて、1つ1つが大きいように見える。真っ暗で湿気のあるお部屋となっているが、こういうところがお好きな方には最適の物件となっている。

この将軍塚古墳より公開古墳は無くなる。ただ墳丘の盛り上がりを眺め、看板の説明を見ながら歩くだけである。

B109号墳・墳丘

郡長塚古墳・墳丘

看板を見ている限り、今までの古墳とほぼ同じ形式の石室が続くようだ。結晶片岩の積み上げ式で、縦に高くなり、石梁や石棚がついている。A地区で存分に見たでしょうと言っているわけだ。
この看板というものがなかなかの曲者であり、油断をしているとただ看板を見る為に歩く事になってしまうのだ。そんなことにはならないように気を引き締め、そして古墳のある風景を楽しんでいきたいものだ。

石切り場のような場所

くず石がたくさん落ちていた

時間が無いので郡長塚で終わりにして下に降りて行ってたら石切り場のような場所があった。むき出しの岩の隣がぽっかりと穴が開いたようになっていて、付近には片岩系のくず岩が一杯。貝吹山や沖島の石切り場も似たような感じであった。こういう類の石切り場はそんなに古くない石切り場だと思われる。

今回の古墳見学会はこれで終わりとなりました。飛鳥近辺の古墳しか見た事が無かったので、石室の結晶片岩の積み上げ式は新鮮でした。茨城で見たのも片岩系(雲母片岩?)でしたが板石を組み合わせる組み合せ石室でありました。それと比べると、積み上げ式は手間暇がかかっており、動員できる人数の多さというものが分かるのではないでしょうか。
岩質に応じて加工の仕方が変わるであろうと思われますが、それによって石室の作り方が変わっているのか?そもそも加工する技術が違っているのか?そして、石棚や石梁にはどういった意味があるのか?などなど疑問は途絶えることがありません。次回来た時にその説明があることを期待しましょう。

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