石清尾山古墳攻め


2020年02月

それはいつであったか、近つ飛鳥博物館を訪問した際の事。展示室で2人の男性が閲覧客に対し熱心に講義をしていた。その2人は、土器についたどんな小さなタタキ跡も見つけれるタタキ職人と、土器の縁の形やシルエットでどこで造られた土器か見分けれる産地職人と名乗っていた。職人たちが織りなす異空間に引き込まれる観衆。当然、私もその中へと引き込まれていったのだった。
私がハッと我に返った時、その職人達の仲間であろうか、讃岐高松界隈の学芸員とおぼしき方が話しかけてきてくれた。その方に耳よりな情報を教えて貰ったのが今回の物語の始まりである。
高松市の名勝地、栗林公園のすぐ裏手に標高200mほどの低山が屹立している。そこには積石塚と言われるリボンのような形が特徴の珍しい古墳があるのだとか。
名人達の難しい話しから解き放たれ、積石塚古墳というリボン古墳をイメージしてみる。その古墳はおそらく、段々に石を積み、大きな石室を作り、羨道→玄室→羨道、という形でリボンのように見えるのでは無かろうか、と思うのだ。土器の事などすっかり忘れてしまった私は、矢も楯もたまらずにリボン古墳のある讃岐への道を急いだのであった。

高松城から南西2キロほどのところ、石清尾山が市街地に寄り添うようにそびえています。開発されているのは麓の高松平野だけでなく、山の平らになった部分も住宅地になっていて少しびっくりしました。
高松平野を高いところから観察するにはとても良い場所だと思いますが、古墳の作られた時代では海に面していたところなので、海上交通を監視する要地であったかもしれません。ここが今回の目的地であります。
石瀬尾古墳群の地図 ※クリック拡大

地図A稲荷山の入口

地図A中野稲荷神社の右手に登山道

石清尾古墳群への入口はいくつもありますが、電車を使う場合はJR栗林公園北口駅を使い、稲荷山から登るのが一番近いと思います。
栗林公園北口駅の高架になっているホームから下へ降りると、稲荷神社の赤い鳥居が並んで線路をくぐっているのが目に入ってきます。ここが稲荷山への入口で、神社の境内からは山へと続く登山道が伸びていました。
赤い鳥居は、JRにより町と分断されてしまった神社の悲哀のようであり、また、生きのびる為に生命線を伸ばし続けるたくましさのようでもあります。

稲荷山はマップを見て貰えば分かるように登山道として整備されており、歩きやすい道となっています。市民の憩いの山だと思われるので、本来ならば自然を楽しむ人々であふれているのでしょうが、あいにくの雨模様で歩いている人とすれ違う事はありませんでした。
入口から坂道を一気に登りきると尾根道へと変わっていきます。そこからはゴツゴツとしたある一定の大きさの岩があり、まるで石室や葺石が転がり落ちたような雰囲気がでています。これは近いのではないか?積石塚とはどんなものだろう?と、周囲を凝視しながら、少しドキドキしながら歩きます。

地図C稲荷山古墳の墳丘

地図C稲荷山古墳の墳頂

土が踏み固められた尾根道から外れ脇へ続いていく岩の道。それが稲荷山古墳への入口でした。そう、積石塚とは石を積んで墳丘を成形していて、岩の道は古墳の墳丘だったのです。私たちがよく知っている古墳は土を使用した墳丘で、葺石は土の表面を固める為に使用されてます。それに対し、積石塚とは内部からすべて石によって構成されているのです。
この稲荷山古墳は「稲荷山北端1号墳」と言い、全国で4例目の双方中円墳と呼ばれるリボン形の古墳です。真ん中の円墳を中心に北と南にバチ型の方墳が造られていて、円墳部の高さは2.4m、全長は69mという大型古墳です。
残念ながらこの時の私はただの岩場だと思い、念のための措置として写真を撮っただけでさっさと先へと進んでしまい、リボン古墳をじっくりと吟味することはありませんでした。

さらにまっすぐに南へと進む尾根に沿いしばし歩いていると、道の脇に石を積んだような箇所がありました。ひょっとすると、これは小円墳の積石塚かもしれません。

尾根道沿いにあった小さな積石

地図A.展望所の露出岩

やがて、視界が開けた展望所へと到着。その場所は石切り場であったのか、斜めに走る岩の節理がよく見える場所でした。近辺の山でも斜めに走る同じような岩を見たので、高松界隈の地質の特徴なのかもしれません。
この山は安山岩を中心に構成されているのですが、讃岐と言えばサヌカイトなので、見た目だけではサヌカイトと勘違いしてしまいそうです。サヌカイトは高松より西の五色台から金山にかけて産出され、屋島では「黒石」と呼ばれる凝灰岩、由良山や鷲ノ山では軟弱な安山岩が採掘されています。
展望所から高松市街を眺める
展望所では高松平野から海へかけて一望できます。水蒸気が立ちこめて湿った煙となったようなこの日は、町と島が幻想的に少しぼやけて見えます。天候次第では青々しい海や島々がもっとよく見えることでしょう。手前の島は女木島と男木島。奥の大きい島のように見える山は屋島だと思われます。

さらに尾根を南へ向かうと「稲荷山姫塚古墳」へと到着します。ここも先ほどの古墳同様に、岩まみれの盛り上がりとなっていました。ここに来てようやくこれが積石塚古墳というものなのだと判りました。稲荷山北端1号墳は円墳部の高さが2.4mでしたが、こちらは3.9mもあり、前方後円墳の形も分かりやすかったから気づいたのです。

地図D稲荷山姫塚古墳墳頂

地図D後円部の墳丘の高さ

稲荷山北端1号墳も稲荷山姫塚古墳も、扁平な板石とブロック状の塊石とを使い分けて築造されていて、中に塊石を置き、外側を板石で飾るという形式で積まれたと目されているようです。さらに色々な円筒埴輪も発掘されており、この円筒埴輪の地域色の強さから古墳時代前期に造られたものであるということが分かるようです。

稲荷山姫塚古墳のところで道は南と西へ分岐しており、石清尾山へ行くには西に進路をとります。一旦下り、再度登った頂上にあったのが「石船積石塚古墳」であります。

地図K石船積石塚古墳

地図K墳頂部分

登り切ると大きな岩山が目の前に現れ、思わず息を飲んでしまいます。それほど先ほどとは規模が違うように見えるのです。

地図K後円部から前方部を

地図K前方部から後円部を

さらさらと身に降りかかる小気味のいい小雨とはうらはらに、どこまでも重苦しい黒い岩山。ここまで自分が土の道を歩いてきたので、まるで中空に浮いた岩塊のような感もあり、ただただ圧倒されるばかりでした。
この古墳は、全長57mの前方後円墳で後円部の高さは5.5mもあります。かなり昔に調査されたきりなのか稲荷山古墳ほど詳細な記録はありません。

地図K刳抜式石棺

地図K竪穴式石室

後円部墳頂には刳抜式石棺と竪穴式石室があります。刳抜式石棺は鷲ノ山の軟弱な安山岩を使用しているのですが、説明板に凝灰岩と書かれていました。地質学的には安山岩ですが、考古学的には凝灰岩と呼んでいると聞きました。河内飛鳥の鉢伏山という場所にも軟弱な安山岩で作られた雨乞山古墳の石棺があります。これも見た目は凝灰岩のようであったので、石の名称もややこしいものであります。
さて、この鷲ノ山安山岩は畿内でも使用されていて、大阪府柏原市の安福寺の石棺と松岳山古墳の石棺が有名なようです。高松と柏原につながりがあったというのも面白く、色々と飛躍して考えてみたくなります。
そして石棺の頭置き場にも興味を覚えます。このような向きで固定する必要があったから作ったものと思われますが、他の石棺でどれほどこのような頭置き場が作られているのかが気になります。

石船塚積石塚古墳から南へ行くと車道に合流します。ここが石清尾山の南に位置する山の窪地になった場所で峰山町といい、峰山公園を中心に周りを住宅が囲み、さらにその周りを積石塚形式の古墳が巡っています。古墳が巡っているところが一番高い尾根道になっており、現在は車道が古墳の周辺を走っています。
その車道に沿って南に歩いて行くとすぐに「小塚古墳」があります。この古墳は、先ほどまでに比べると少し大きい岩が目立ち、墳丘の形状も分からない古墳でした。次に見えて来る古墳は「姫塚古墳」。こちらは現在立ち入り禁止になっていて、その理由が崩れる危険があるからだそうです。崩れるかどうかは分かりませんが、石の量がかなり多いことは確かで、説明板にも最も形状が分かると紹介されておりました。

本来ならば、次に出会う古墳は「猫塚古墳」なのですが、車道から外れた位置にあるので場所が分からず、先に石清尾山2号墳と3号墳へと来てしまいました。石清尾山2.3号墳はここまで見てきた古墳とは違い、石で造られた石室を中心に、周囲を盛り土で固め、土の墳丘を作る横穴式石室という形式であります。
地図B石清尾山2.3号墳のある広場
住宅街の中の1区画を公園のように使用し保存されています。桜の木の下に石室が開口しており、花見の季節には、石室の中からだけでなく、石室の上からも花見をして盛り上がっていることでありましょう。

地図B石清尾山2号墳石室

地図B石清尾山2号墳石室

地図B石清尾山3号墳石室

地図B石清尾山3号墳石室

両古墳ともに上が狭まっていく形の古墳で、積石塚と同じ石材を積みやすいように扁平に加工して使用しております。3号墳のほうがやや大きいですが、2号墳の奥岩の大きさが見事だと思います。
説明板を見てみても6世紀末から7世紀始めに作られた古墳としか書かれていないので、あまり調査もされてないと思われます。

続いては見つけられなかった「猫塚古墳」へ向かいます。マップでは道が続いているように見えるのですが、これは遊歩道なので歩きやすい車道から少し外れなければいけません。しかし、積もる落ち葉に足をとられようとも、たとえ藪まみれの遊歩道であったとしても立ち寄るべき古墳だと思います。

地図16猫塚古墳・南方部から中円部

地図16猫塚古墳・中円部から北方部

「猫塚古墳」は積石塚の双方中円墳で全長96m、高さ5mという石清尾山古墳群で最も大きいものです。中円部は方墳部に比べ非常に高くなっていましたが、1910年に盗掘を受けかなり変形してしまっています。その中円部には竪穴式石室1基とそれを取り囲む小さな石室が8基あったという、盗掘関係者への聞き取り調査があるそうです。

地図16猫塚古墳・大きく崩れた中円部

地図16猫塚古墳・竪穴式石室説明板

この大きく崩れた中円部を見て頂ければ、最初に述べた積石塚は内部からすべて石を積んで構成されている、ということが分かろうかと思います。
ここに、説明板のように石室が並んでいたといいます。王の石室の周りに殉死した近臣の石室があったのでしょうか。古墳の規模をみてもかなり力を持った人物であったと思われます。
説明板の引用元を見てみると京都帝国大学の1933年版の調査書のようです。今、もう一度調査するとまた違ったものも見えてくるのではないでしょうか。

次は来た道を戻り「鏡塚古墳」へ。石船塚古墳から向こうに覗き見える石積みが神秘的に見えます。
地図11鏡塚古墳への小道

地図11鏡塚古墳・南方部から中円部

地図11鏡塚古墳・中円部から北方部

この「鏡塚古墳」も双方中円墳で全長70m、高さ3.6mという大型古墳です。他の古墳同様に詳しい事は分からないようですが、鏡が出土したという伝承がある事から鏡塚というのだとか。
中円部より外の景色を眺めていると、時々強いつむじ風が吹き付け、激しく空気のきしむ音が響き、より一層に幻想的な空間へと変貌していきます。人を魅惑するような儀式を開催するには格好の場所かもしれません。

最後に見たのは「北大塚古墳」「北大塚東古墳」「北大塚西古墳」という3つが並んでいる古墳です。前方後円墳2基と方墳1基で構成されています。

地図10北大塚古墳・前方部から後円部

地図10北大塚西古墳・前方部から後円部

ここの前方後円墳は2基とも、前方部と後円部の落差がゆるやかなので迫力に欠けます。ここまでさんざん積石塚を見てきたので慣れてしまったのですごさを感じられなくなったのかもしれません。

これで積石塚見学は終わり、谷沿いの車道を降りていくことになりました。朝9時に稲荷山を登り始め、じっくりと見学して1時半くらいに麓に降りたので、一日あればマップの全部の古墳を見る事も容易でありましょう。

今回見学した古墳は、今までのものと大きく違っていた。粗く崩れたまがまがしいまでの黒い岩の力強さ、規模の大きさには圧倒されっぱなしであった。石棺を放置していたり、盗掘されへこんだ部分もそのままに、細かい整備をしていないというのもとても良い点だったと思う。
高松という繁華な都市のほど近くにある山に、これほどの巨大古墳が破壊や改変を受けながらも現在までその姿をさらし続けている。古跡や史跡と呼ばれるような場所は文化庁や教育委員会などの横暴なる権力の欲しいままにされている状況が続く昨今、石清尾山古墳はこのまま整備したりなどせずに、全国の古墳好きの皆様に新しい感動を伝えてくれることを願うし、河内飛鳥のように手を加えずに保存していくという手法(文化財保護活動)が得意である高松市ならばそれができるであろう。

※参考資料PDFファイル:現地説明会資料

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