耳成山攻め


2019年01月

日本人ならば誰もが耳にしたことがあるであろう大和三山の畝傍山・耳成山・香具山。その中でも最も華麗なる山と言われるのが耳成山。大和盆地のほぼ南端に位置し、広い平地の中にひょっこりと円錐の形を地上に出している。
そんな耳成山に城跡があるという。これは是非確かめねばなるまいて。

耳成山は奈良の都心部である大和八木駅から徒歩二十分程度のところに立地しており、交通アクセスの良さは日本随一の城となっております。
しかも、付近は町として開発されており、耳成山を歩く人々も数多く見受けられます。そんな耳成山に城跡があるにもかかわらず、なにゆえ無名なのでしょうか?そんな疑問を持ちながら耳成山を歩いてまいりました。

南西の畝傍山からの耳成山

北東の総合庁舎からの耳成山

北から見ても南から見ても同じような形に見えるのがこの山の特徴です。その端正で常に変わる事の無い形が人々にとって羨望の的であり理想とされていたことでしょう。この理想は今も昔も変わる事が無いと思っているのですが、興味の対象が多様化しており昔ほど耳成山が取りざたされることも無くなったと思われます。

そんな耳成山は畝傍山と同じく変質流紋岩でできている山ですが、畝傍山は花崗岩や溶結凝灰岩なども混ざっているのに対し、こちらは麓からほぼ変質流紋岩でありました。その違いなどもまた別項で書いていきたいと思います。

まずはマップを見ていただきましょう。看板に載っていた地図に、城郭本に書かれていた縄張り図と、カシ男が見た感覚をつなげて書いてみましたが、ちょっと分かりにくいので実際に行ってみることをお勧めいたします。頂上付近からが城跡になっておりますが、頂上まで5分程度なので軽い気持ちで訪れることができます。
耳成山マップ※クリック拡大

南側からの入口

東側からの入口

耳成山には3つの入口がありますが、今回は一番近い南側から入って行きました。グルッと一周回ってもたいした距離でもないので好きな所から入るがよいでしょう。

南側の入口から直線的に登る道だと山頂まですぐなのですが、見たいものがあったので遊歩道を通ってグルッと回って登りました。

太平洋戦争の名残

この穴に武器を隠そうとしたらしい

上の写真の武器庫が見たかったものでございます。題名は失念してしまいましたが、橿原図書館で見た朝鮮人の強制労働というような本にこちらの事が書かれておりました。
現在の畝傍高校は太平洋戦争当時は海軍のもので、その海軍がおそらく指示し、当時の朝鮮人がここを手堀りで掘ったらしいです。武器を隠すために掘った説と防空壕説があるようですが私は武器庫だろうと思っています。
柵の所の穴まで道が出来ているように見えますが、ここも元々は掘った通り道だったかもしれません。それが崩れてしまってこんなに分かりやすくなっているのではないでしょうか。なぜなら耳成山は手堀りで掘れたり、簡単に崩れたりする岩質なのです。
右側の写真の白い岩が変質流紋岩と言われる岩です。この岩が非常に脆くて軽い岩でした。あちこちで倒木があり、その根っこがこの岩のクズを抱いて倒れています。これだけ脆い事を考えると防空壕説は否定されるのではないでしょうか?もうほんまにボロボロですよ。

武器穴は南側から南東方面に4つ、5つ存在しましたが、すべて中に入れないように柵がしてありました。現在は綺麗になっていますが、本で見た写真だと自転車とかのゴミが捨てられておりました。ゴミを海に捨てるか山奥に捨てるか身近に捨てるかはこれからも難しい問題となっていくでしょう。

「身近を綺麗に」という現代の闇は、見ざる聞かざるで先へと進みましょう。北側から優しい登り道があったのでそちらから神社へと登っていきました。この山の斜面は全体的に見て緩く、絶壁のようなところはありません。どこからでも登れるというのは城としては使いにくいのではないでしょうか。

北側から@曲輪の部分へ侵入

山口神社は東側が正面

古い絵馬がたくさん飾られている

算学の絵馬もあった

@曲輪の部分が大手口方面と考えられると「近畿の城郭」という本に書かれておりました。すべての道がここに集まっているそうです。
そして、山口神社が昔から賑わっていたであろうことが、絵馬がたくさん掛けられていることで分かるのではないでしょうか。算学の絵馬なんでいうのは初めて見ました。

下の左の写真がなかなか面白いです。山口神社の石垣なのですが、土台にはこの山の変質流紋岩を使っており、その上には飛鳥の竜門山系の閃緑岩が使われております。手前の灯篭はやたらと白いので瀬戸内系の花崗岩ではないかと思われます。
この土台の変質流紋岩もそこまで古く無さそうですが、割れ方や加工が難しいのか、上にはすべてしっかりとした岩が置かれていました。

山口神社の石垣

Aの明治天皇馬車道へと続く

右上の写真がAの明治天皇の馬車道へと続いていく道です。こちらの道が現在では入口のようになっておりますが、昔は神社の北側から入っていたようです。

A曲輪

A曲輪とB曲輪の間の切岸

A馬車道とは別に神社の南側から西へ入る階段があります。それを登ると曲輪Aへと到着します。神社側との段差やB曲輪への段差はかなり高かったです。
A曲輪の奥にはBの虎口があります。それが神社北側を通っている道へとつながっています。Bの虎口の写真は撮り忘れてしまったが、昔の道の名残なのか石が散乱しておりました。

B曲輪

C曲輪

B曲輪はからはかなり広くなってきます。西側へ少し緩やかに登って行くとC曲輪になり、C曲輪も広い平坦地となっております。が、本来このA、B、C曲輪は切岸で切り離されており、北側の虎口Bから曲輪Eを通る作りになっていたと予想されるようです。

城道Cと思われる場所
虎口Bとは別に城道Cからの道もあったようです。帯曲輪のように3本ほど道が段々についていて、ここが「近畿の城郭」の縄張り図で一番違っていたように思えたところです。残念ながら道なのか帯曲輪なのか私ではまったく判別できませんでした。

Aの部分からC曲輪方面

D主郭に上がりきったところ

上の写真はA馬車道の部分から右手にB曲輪を見ながらC曲輪を通ってD主郭へ登ったところです。ここが明治の改変で緩やかになった場所ですが、かなりの高さなので切岸のようになっていれば圧巻だったかもしれません。

D主郭

D主郭の土壇状部分

D主郭はベンチなどが置いてあり弁当を食べて休憩している方もいました。その中に土段状に盛り上げた所があり、そこに明治天皇の演習統監碑がありました。雰囲気的には神社の本殿が元々ここにあった、というふうにも私には見えました。ですが、本にはこの土壇上の盛り上がりは櫓台だった可能性が高いと書かれていました。

D主郭を囲むE曲輪

E曲輪からB曲輪への虎口

E曲輪はC曲輪と同じような高さでD主郭を囲っています。このD曲輪を東へ通っていくと道が狭まり、虎口のようになって曲輪Bへと入ります。

F曲輪の虎口のようなところ

D虎口

E曲輪には一段下がった虎口のようなところが北と北西の二か所にあります。F曲輪は少し広い空間となっており、西側へ降りる少し急な道がつながっていますが、虎口というよりもD虎口への横矢でしょうか?
F曲輪の西側の急な道は、本来はD虎口へとつながっていてD虎口が搦め手となっていた可能性が高いらしい。そして、C城道とつながっていると推測できるようです。これはD虎口とF曲輪の関係が逆でも通じるかもしれないと思います。

G曲輪
最後に山の中腹にあるG曲輪へ寄ってみます。方形に削りだされているようには見えるがどうなのだろう?西側から来る敵への横矢が掛けられる場所らしいのだが・・・。

城らしい城の遺構がよく残っているように素人目には見えました。あきらかに区画を区別して作っている感じが出ています。「近畿の城郭」でも「単純な構造ではなく技巧的な部分も随所に見られる」と書かれており、手の込んだ作りだったようです。しかし、文献的には赤沢が1506年に利用した事が分かっているだけのようでくわしくは分からない模様であります。
事実としてこの付近の豪族である十市氏はここよりも少し北側に城を築き、越智氏は十市氏を攻めるのに耳成山の麓の新賀というところに城を築いています。畝傍山もそうですが地盤が脆い事によって城としてはあまり機能しなかったのかもしれないと思いました。
だからこそ有名にはならずにここまで落ち着いた雰囲気を得ることができたのかと思います。しかも、こんなに気軽に行ける山城は無いと思いますので是非訪ねてみてください。

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