純友公園攻め


2019年09月

時は平安時代の中頃の事。931年〜941年にかけて日本の東西で大きな乱が勃発した。1つは坂東独立王国を宣言した新皇平将門の乱であり、もう1つは海賊を組織しあわや京都まで討ち入ろうとした藤原純友の乱である。これを承平・天慶の乱と言う。
各地に伝説の残る平将門と違い、藤原純友には伝説のようなものは少ない。数少ない伝説の中でも「純友追討記」に記される日振島の本拠地跡は有名な所である。
今回はその有名な日振島に立ち寄り、純友に思いを馳せてみたいと思う。

キャンプ場の看板地図 ※クリック拡大

純友公園から明海

喜路側の島から明海

日振島は本土・宇和島港より高速船で約50分程のところに浮かぶ島です。西北から南東にかけて細長く伸びた島で、北から能登・明海(あこ)・喜路と港が3つあります。1日3便あるフェリーを島民の皆さんが荷物の受け取りや人を迎える為に港へと足を運んでおります。
地図写真は能登から明海へ向かう途中にあった大入キャンプ場の地図看板であります。今回ぶらついたところを適当に書き入れてみました。山の道は猪が出るようになってから人が入る事が稀になったそうですが、長年使っていた道でしっかりとした道跡がついていました。

海円寺の奥のダム
明海の「民宿・礒乃屋」さんで宿泊し、純友公園の場所を聞いてみました。明海集落の道沿いに南へ向かって行くと消防の建物があり、そこから集落に入って行くとブランコがあってさらに進むと井戸や公園の登り口が見えてくると教えてくれました。もう1つ違う分かりにくい道もあると言っていましたが、それがおそらく海円寺の奥のダムの道だと思います。
明海集落の奥まで行くと海円寺が見えてきて、山の崖に石垣を作り段々にお墓の用地を確保しております。その傍を流れる明海川の先にダムがあるのです。
ここから入ろうかと思ったのですが、かなり草が生い茂っていたので中止にしました。井戸も見てみたいし正規ルートから入場することにします。

純友公園への案内板

純友伝説・みなかわの井戸

公園へは舗装された道を行く

最初と最後は階段に

一度海沿いの道まで戻り少し南に行った所で集落の中へ入って行きます。消防小屋にブランコもあったので正規ルートだと確信しました。
少し歩くと案内板があり、民家の合間の狭い路地にある「みなかわの井戸」を見学。島では大切な水なので今でも使っているようですが、島の人に聞いたところ電気も水道も本土から送ってきているのであまり井戸は使わないと言ってました。
看板の所から少し奥に行くと階段がありそこから舗装された道がずっと上へと続いていきます。15分ほど登ると純友の碑の場所へと到達します。

「海賊将軍藤原純友の根拠地」

「藤原純友籠居之跡」

純友公園から東の眺め

純友公園から南の眺め

公園内に入る前に倒れかけた板看板が草に埋もれていて、その先の階段を登ると大きな碑が見えてきます。
公園は山の伸びた尾根を利用して作られており、碑の後ろは細長い平坦地になっています。ここが城跡と言われる所で、純友の時代では無く戦国時代の堀切の跡などがあるらしい。私にはどれが堀切なのか分からなかったのですが、「城郭放浪記」というサイトの方が詳しく調査していて、堀切だけでなく堅堀や虎口付近に石塁もあると書いておられました。
木を刈っているので非常に展望が開けています。しかし、ここに籠っていても簡単に逃げれるはずもないし、水や食料の問題もあるので非常に危うい場所だと思われます。
一説には、戦国時代の豊後の大友氏が日振島を中継にして伊予へと攻め入っていたように言われています。平安時代にも九州方面からの輸送ルートが確保されていたのならば、純友はここに籠ったのではなく、反攻を狙っていたのかもしれません。

碑と一緒に記念撮影
壊れた石のテーブルを見ていると、世の中の波にのまれて賊とされてしまった純友同様の哀愁を感じさせます。記念撮影をした碑の裏側には、建立の理由が刻み込まれていたので、ここに記してみましょう。
「昭和十三年十一月二日 予偶少閑を得て帰郷し親しく茲に藤原純友の遺蹟を訪ひ遥に思を千有餘年の古に馳す其の賊名を免るること能はざりしを喜ばざるは論なしと雖も扁舟を帥ひて活躍したる剛壮敢為の行動海國男子としてエライ男だといふ感もまた稍起こらざるを得ない乃ち一碑を建立して記念とする 昭和十四年五月 山下亀三郎」
この碑を建立した山下亀三郎氏は、宇和島市吉田町生まれの海運王です。賊名を免れなかったのは悔しいけれども、ひたすらに船を率いて剛壮に活躍したのでエライ男だとも思ったそうです。

宇和島市吉田町の住吉神社

鳥居に山下亀三郎氏の名前が

山下亀三郎氏と言えば別の日に訪れた吉田町の住吉神社の鳥居にその名前が刻まれていた事が記憶に残っております。
坂の上の雲資料館でも秋山真之を匿ったのが山下亀三郎であると紹介されていたし、松山市の古本屋でも「吉田町は山下亀三郎を筆頭として文化人がたくさんいる」という話を聞きました。きっと純友公園や住吉神社だけでなくあちこちに名前を残しているのではないでしょうか。

公園の奥の道

石垣も数段あった

88か所巡りの地蔵様

能登港とキャンプ場の分岐点

公園の奥からは山へ入って行く道が続いています。何か植えていたのか石垣で段々にしている場所があったりしてかなりしっかりとした道でした。西の岸へと降りてみたいと思っていたのですが、かなり急な斜面であったので道に沿って行きました。すると、自然と西北の能登港方面へと向かってしまうことになってしまったのです。
今でも誰かが手入れしているようなお地蔵様の前を通り、キャンプ場へ降りる道と能登港へ続く道との分岐点に差し掛かります。能登港方面へは行ってないのですが、能登から明海へ行く車道の所からも道は見えていたので問題なくつながっていると思います。

分岐点付近からキャンプ場

分岐点から車道へ降りた所

分岐点に居た時はどこにいるか分かっておらず、上から見たキャンプ場の砂浜がいい感じなのでそこで弁当を食べるつもりで降りていったのでした。磁石を見ながら、おかしいなあ?と感じていたのですが、車道まで降りて振り返った時に昨日通った道だと気づいたのです。
苦笑いをするしかありませんでしたが、再度登る気にはなれず車道を明海港まで歩く事となりました。今になってよく考えてみると車道より山道の方がかなり近いので断然山へ戻るべきだったと後悔しました。

今回、日振島の能登から喜路までを歩いてみて、山の険わしさや宇和島の近さ、九州の遠さが実感できたように思えます。ただ、私では海の道というものがまったく見えてこないので、海に慣れている人に聞くべき問題だったのかもしれません。

山下亀三郎氏のように千有餘年の古に思いを馳せようと思っていたのですが、私の想像力では至らぬ部分が多すぎたように感じます。
はたして、純友が率いた「海賊」と言われる人たちは、山下亀三郎同様の海運業者だったのでしょうか?もしそうならば海運業者を担当する役所から外れていった存在だったのでしょうか?
それを考える上で平安時代の伊予の国を知ることが必要であるし、後の時代の海運も知らなければいけないでしょう。そして再度この地を訪ね、山下亀三郎を越えるようなエライ男になってみたいと強く思いました。

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