高取山攻め


2017/04/02

数年前、高取山城に行った事があります。城の遺構が今もよく残った所と本で読み、城なんてあまり見たことが無いので、一度は見ておかねばなるまいと登りに行ったわけです。
登った時にすでに4時で、でかい石垣があるのは見ましたが、ほんのり暗くなってきていたので、あまり見れずに急いで帰りました。その帰りの途中真っ暗になってしまい、かなりビビった記憶がございます。
その降りる途中の、薄暗い最中で五百羅漢を見ましたが、迫力が非常に凄まじかったので、今度は五百羅漢を確実に見れるようにと早起きをして、高取攻めを敢行いたしました。
前回は城下町の土佐から入って行き、壺阪寺方面に出て行ったので、今回は栢森方面から入って行きたいと思います。前回来た時には台風で崩落していた道です。崩落するほど危険な道とはどんな道なのか、ドキドキワクワクです。

さてさて、やってまいりました岡寺駅に。今回は気合いを入れて、地図をしっかりコピーし、防水靴にリュック、ライトにハンマー、水もおむすびも持ちました。ここから本日の高取観光スタートでございます。岡寺駅から石舞台、稲渕から栢森を経て高取山に、そして土佐から壺阪寺駅で帰る予定です。

ところで観光って不思議な言葉ですよね?「光」を「観る」となっておりますね。光ってる所(禿げ頭ではない)を観るとゆう解釈もありそうですが、ちょっと妄想をしてみまして、昔々は、天皇を直接見たら神々しすぎて目が潰れるといって、天皇は、必ず簾の向こうにおわすわけですよね。その天皇の明治やら昭和やらがあちこちでお手々をお振りになられて、皆さまが旗を振り振り見に行くわけです。それが光(神々しいもの)を観るという事になり、言葉として観光ということになったのではあるまいか、そこから転じてあちこち観る事を観光というのではないかと思うわけです。

そんな事を妄想しながら進んでおりますと、橿原市と明日香村の境に着きました。ここの境界で雰囲気がガラリと変わります。橿原市のニュータウンから明日香村の歴史的風致地区だったか?に入るので、まったく違う所になってしまうのです。しかし、歴史が感じられる雰囲気になっているかどうかは?
その昔、明日香村は、高市村と飛鳥村と坂合村が合併して、名前も色々な案があったけども、音を残したいって事で明日香村になったそうです。飛鳥と読みは同じだが、当て字になってしまって飛鳥のイメージが崩れてしまったと思う。
その当時は飛鳥ブームなるものがやってきていて、ふるさと飛鳥保存運動があり、国の大臣が来て色々視察をし、お金もたくさんくれることになったようです。その時に資料館やら国史跡公園やらを整備し、ふるさと飛鳥、または日本の原風景になったみたいです。つまり40年くらい前に、日本人のふるさとや原風景が作られたわけですね。

またしても妄想している間にどんどん進んでいました。明日香村養護学校の敷地内で発掘調査中の小山田古墳が近くにあるので立ち寄ってみる。近所の人に聞きますともう埋め戻してしまって分からないのだそうだ。発掘してるところを観たかっただけに残念。
橘寺の辺りで路地に入って行くことにした。少し進むと立派な建物があり、そこに1855年創建の祝戸村役場川本家と書かれた家がありました。この家のおばさんが陽気にしゃべってくれて、ここに高取藩の家老がおり、高取の殿様が参勤交代のおりにここの家でいつも一服したとか。
そこを過ぎて稲渕地区に入りました。山が迫りつつもそれを切り開いていて、田んぼだらけで見晴らしがよく気持ちのいいところでした。たまに車が通るくらいで静かで落ち着く所です。
稲渕地区。落ち着いた良い所でした

少し進むと稲渕の集落に入り、入口に「男綱」なるものが飛鳥川を渡ってかかっていた。ここから悪いものが侵入しないように食い止めているようだ。上流の栢森でもやはり同じようにしていて、そちらは「女綱」と言うようだ。なにかよほど嫌な事があったのでしょうね。そこまでして防ぎたいものとはなんだったのでしょうか?

男綱。神聖なる我々は結界でも入れます

男綱の説明板、外人も来るようだ


神聖なる集落に入り、南渕請安先生が居住した竜福寺を通りすぎると、請安先生のお墓があります。この方は推古時代(608年)に小野妹子と一緒に隋に渡り、骨の髄まで勉強をして、舒明時代(640年)に帰って来たそうです。そしてここに住み、中大兄や中臣などに儒教を教えたとゆうことです。この人は初めて知ったのですが、32年間も中国で生活した人がまた日本で住んで、さらに天皇の師匠にまでなってるんだから、古代の日本のスケールもかなり大きい気がします。この人に教えてもらったからこそ、天智天皇はそれまでと違う天皇になったわけですね。

竜福寺。竹野王の碑もあります

請安先生は庶民派ワンカップ


この日が祭礼の日だったのかは分かりませんが、4人ほど人が居て供え物したり掃除したりしていました。今もまだ請安先生を慕っているというのが、このふるさと、いや、稲渕地区にはふさわしく感じられます。

お墓の場所は少し離れた所から入れた

下から見たら古墳のようだった


請安先生に別れを告げ稲渕集落を出ると、山側に登る道があったのでとにもかくにも行ってみる。上がりきった所に神社がありましたが、名前すら書いていない神社で、古墳のようなものをご神体としていました。澄み切った空気と、張り詰めた森の雰囲気に、ついつい座り込んでしまい、まだまだ10時なのにここでもうおむすびを食べてしまった。後一個しか残っていない状況に追い込まれてしまった。

静かなる事なんとかの如し?

これはどう見ても古墳に見えるが・・・


休息して元気になったので降りようとすると綺麗な階段が目の前にあった。登って来た所は古い参道で、今はこちらの階段で一気に来るのでしょう。そして一番下に降りて入口を見てみると、ウスタキ神社と名前が書いてありました。帰ってから調べてみたら、皇極天皇がここで天に祈り雨乞いの儀式を行い、蘇我天皇は寺で僧侶に経をよませて祈り、雨乞い勝負をして、皇極天皇が勝ったのだとか。蘇我は意図的に悪者にされてる部分もあるので、どこまで本当かは分からないが、この時代にこのような事が行われていたということです。稲渕と栢森にある綱は、蘇我の魔力が及ばないようにする為だと思うが、稲渕では神式で、栢森では仏式で行事を行うのだそうだ。まるで蘇我VS皇極のようですね。おそらくこの頃からやっていたものが今でも続いているのでしょう。請安先生といい、つくづく伝統を重んじる風がある所なのですね。

ウスタキっていったいなんだろうか

男綱付近の行場、雨乞いはこんな感じ?

神聖なる場所でおむすびを食らい、神の怒りが落ちる前にそそくさと退散する。そして、飛鳥川沿いの車道をひたすら歩きます。東側も結構な山(多武峰でいいのかな?)西もかなりの山(こちらは高取山)で、川の流れた所だけが平地に削られたような所ですね。
地図を見てみても飛鳥の背後にこれらの山々があるので、後ろから攻められる恐れはないですね。この一本道ではすぐ見つけれるし、たいした人数も運べそうにないです。蘇我の力は強かったと思われるが、別の勢力から天皇を守る必要があったのかもしれません。
この東側の山に入谷や畑と言う地名がありまして、辰砂や秦氏に関係がありそうなので、そのうち訪れてみたいと思います。今回はこの栢森から高取山に入って行きます。

飛鳥川沿いにずっと歩き続け結界である「女綱」を越えて、高取山への入口、もしくは入りやすそうな所を探していたのですが、管理されている畑だらけでかなり入りにくい。
女綱。稲渕の集落だけを守っている

そうこうしているうちに芋峠へ向かう入口まで来てしまったので、地図を持ってきておきながら悔しいですが、マラソンをしている人に尋ねてみた(ここでマラソンしてたのも驚きだ、おそらく芋峠を越えて吉野まで行くつもりだろう、本当か!?)。地元の人なのか詳しいみたいで綱の所から入れると教えてくれた。しかも綱の所に案内板まであるそうだ。まったく見る目がないってことですね。
せっかくなので栢森集落も通り抜けて戻ってみる。こちらも稲渕と同じで大きくて綺麗な民家がそろっております。稲渕と違うのは食事処が3つ程あったことですね。営業しているかどうかは知りませんよ。
栢森の民家?立派な石垣でする

綱の所まで戻ってきてよく見ると、やはり看板が立っていました。地図もよく見るとそこに徒歩道があるように見えます。明日香の神々しい雰囲気に目が潰されてしまっていたようです。目が潰されると言っても物理的では無かったんですね。蘇我も天皇に目が潰されていたようだし、天智天皇なんかもそうかも?
気を取り直し高取山に入って行きました。崩落する道のイメージがあったので、きわどい所と思っていましたが、かなり人が通っているようで、しっかり踏み固められた道がありました。これだと安心してただ歩いて行けば自然と高取山に到着しそうです。
かなり歩きやすい道でした

途中キトラ大根田行きの道と合流します。そこで高取山を2周してる方と入れ違いました。みなさんすごい運動っぷりで感服致しました。さすがに2周はする気にならないし、時間も足りなさそう。
途中で石垣があるところがいくつかありましたが、城からはかなり遠いので、畑用か家用の平地作りの為ですかね。道はかなり良いのでどんどん進めます。
屋敷用石垣?

高取山城は徳川家光の頃に入った安城譜代の植村氏がかなり改修をしたようです。この植村氏が少々変わった運命で、徳川家康の祖父、清康を殺した下手人を討ち、家康の父の広忠が襲われた時にも下手人を討ったのですが、家康の子供信康の補佐役(この時は植村の孫・家次)であったため、信康が切腹した時に牢人せざるをえなかったんだとか、司馬遼太郎の「街道をゆく・壺阪みち」に書いてますので、興味があれば御覧ください。

植村氏の悲運を嘆いているうちに高取山の入口とも言うべき猿石に到着致しました。何年か振りの猿石の頭を思わずナデナデしてしまいます。この石は飛鳥時代の不思議の石造物だったらしく、高取山城を作るときの石材として持ってきたが、面倒になってこの辺に打ち捨てたようですね。このように飛鳥の石造物や古墳に使われていた石材などを、手ごろな所にある石として石垣用に持って行った模様。
そういえば羽柴秀長が作った大和郡山城も、大和のその辺りの石を持ってきまくってるみたいで、寺の礎石や地蔵さんなんかも城の石垣に混ざっているそうです。大きな岩が無いと言うのも理由の1つのようですが、大和人の気質「がんまつ」が現れたところなのかもしれません。
石垣は所々崩れているのか、鎖で補修しているところがいくつかありました。司馬氏が訪れた時なんかも石垣が妊娠したと言って、工事をしてたみたいだし、水抜きがとにかく大変なんだそうだ。植村氏が改修した時の石垣奉行の3人も、死んでも石垣を見守るということで、城の三方の門に葬られたそうです。それくらい石垣が気になって仕方無かったわけですね。

本丸に入る前に国見櫓に寄ってみる。前回来た時は望遠鏡が置いてあったが、使い方が分からずそのまま捨て置いたところだ。今回は望遠鏡はもう無かった。前はあまり分からないままに見ていたが、葛城や二上、貝吹山や畝傍なども分かります。向こうの大和の野というのは広いものだとつくづく思います。さらに災害が少なく収穫が安定していたらしいので、ここを抑えていた興福寺や東大寺が強かったのも分かる気がしますね。
二上を中心に、この山は目立つ

そしてついに高取山城に到着。二の門から宇陀門や松の門とか門跡がたくさんあり、「虎口」と言われる門で入口がかなり狭まっており、さらに方向転換を余儀なくされるという、なんかどっかで見た説明のような門ばかりでした。こんな山の中でこの厳重さにはびっくりしました。
大手門跡から大きくて立派な石垣に変わりました。隅石は綺麗に削られていたが、他の部分はまちまちの大きさの岩が苔むしていて、それがむしろ周りの風景にうまく溶け込んでいました。修復された城で見るような綺麗な石垣とは違いますが、むしろこちらの方が違う意味で綺麗です。
ふと気づいたが、高取山城と、大和郡山城の石垣は似てるような気がします。時代もほぼ同じ時代ですし、再利用も同じようにしたし、石垣を作る集団も同じだったのかもしれませんね。ですからこの大和の石垣を※「がんまつ石垣」と名付けることにする。
そういえば、ここに来るまでに一升坂というところがあって、そこを我慢して石を運べば一升米をくれるとゆう逸話がある場所もあります。それくらい石を運ぶのが辛かったということです。

高取山城の石垣=※「がんまつ石垣」

大和郡山城の石垣=※「がんまつ石垣」

※「がんまつ」=大和の方言。人の事にはまったくおかまいなしに、自分の欲しいものを貪欲にも奪い取る性格を言う。京都府の「ごりがん」と似ているが、もっとどす黒い感じ。ごりがんは可愛い感じ。

そんなに頑張って作った城が一度も使われずに、天誅組と戦った時も麓の田園で行われたようである。天誅組はここで籠城するつもりだったらしく、十津川の兵士を800人程も連れてきていた。この十津川郷士達は三日三晩一睡もせずに十津川から出てきて、天誅組に無理やり戦わされていたらしく、終始やる気は無かったようです。そういうこともあって、城を攻められることも無かったわけですね。
それが今、我々が観光という形で見に来てるわけだから、何がどういう役に立つか分かりませんね。西洋人(まだまだ寒いのに半袖短パン)や中国人の団体なども来ていたので、日本の山城のアピールにはとても良い所かもしれませんね。
一番上の本丸の部分ですが、結構広い平坦地になっていて、そこに高い石垣を作り、天守閣も置いてたようですね。その一番高い所から南の吉野側に向けて視界が開けていて、山々山が見えます。私の相棒は想像力がすさまじく、ここから見ているだけで、吉野桜の木陰で遊ぶ少年の姿までが思い浮かぶようです。ここに観光客がたくさんいて、弁当を食べている方もいました。それを見てるとヨダレが止まらず、我々も食べようではないかとエアー風呂敷を広げたが、最後のおむすびは相棒が盗み食いをしていてすでに無くなっていた。この高い所から食らうおむすびはさぞかし美味かったと思われるが、いたしかたありません。
吉野方面。奥は全部山ですね

石垣奉行の3人の墓なんかも回りたい所でしたが、腹が空きすぎていたのでここで降りる事にします。五百羅漢が一番重要ですから、そこまではなんとしても体力を持たさねばなりません。懐かしの溝みたいな道「大淀古道」を通り一目散に降りていきます。下りだけにあっとゆうまに到着。
前に羅漢を見た時ほどの迫力は感じませんでしたが(一番でかいのを見逃したかも?)、それでもその独特の空間は異様に思え、思わず声が漏れてしまいます。今は途切れ途切れで羅漢の切れ目を歩き回るけども、昔はもっと一面が羅漢だったのかと思うとかなりすごい気がします。切れ目を通るからか、ロープを渡してる所もあった。前は無かったけど、これの使いやすさが非常に良い。今度からロープに石の重しをつけたようなものも持参しておこうかな。
高取城を作るときの犠牲者を祀ったりしたのかなとも思ったのですが、岩の雰囲気からもっと古そうに見えたので、鎌倉とか室町時代の遺構でそういう所をいくつか見たこともあって、ちょうどその頃に流行っていたことなのかなと思いました。 相変わらずの妄想なのですが、荒れた時代を嘆いた僧侶なのか仏師なのかが、これで救われよと掘ったものか、又は公家(もしくは御家人)に変わって、新しい武士(悪党)と言う「パトロン」が出来た事により、芸術家達の表現方法が変わってきたものなのか、どちらでも面白い話しかと思います

もっとでかいのがあった気がする

色々描いているものが違います


これで当初の目的は果たしたので、とにかく飯を食らいに麓に降ります。急いでいたので、適当に道と思える所を降りていきましたが、なんだか途中で道なのかどうなのかが分からなくなってきました。どうやら山の管理をするための作業道のようでした。
かなりの急坂を降りに降りまくったが、全然下が見えてこない。不安になって、念の為の措置で持ってきていた磁石をだしたが、今の位置が分からないので意味がなかった。そうこうしてる間に、下にたどり着き川が見えてきた。
歓喜の声をあげる相棒。私もこれで救われたと思いました。あとは川に沿って行けば自然と集落に着くはずです。しかし、不思議な事に丈の高い草を避けていると、何故か上へ上へあがって行ってしまうのです。畜生!仕方ないのでまた無理やり降りました。
そうこうしているうちに安定している道について、ホッと一安心。下りだから良かったものの、登りだったらと思うとまったく行く気はしない。そう考えて今来た道を振り返ってみると、やはりかなりすごい山城なんだなとゆうのがよく分かりました。時間にして20分程度だったが、かなり急な下りだったので思った以上にしんどかった。
そして国道に出て我々は無事に生還しました。腹が空いてたので近くのソバ屋に行こうとするもすでに閉店。土佐の道の駅まで行きようやくカレーにありつけました。ここからはさすがに疲れてしまってトボトボと帰ることになりました。

どうみても道ですが、急すぎた

川についたらホッとしますよね


今回は気合いを入れて装備をしたのが良かった。防水靴で少々の沢も入れるし、リュックがある事で手が空き、木を掴みながら降りれるので滑り落ちる事もない。地図がある事で自信を持って進める。水やおむすびも持っていく方が良いですね。装備を持ってないのもそれはそれで面白いのですが、目的があるなら装備して行った方がうまくいきます。後は石付きロープと磁石の使い方を覚えよう。
だんだんうまく観光できるようになってきましたので、次回は吉野側からとか芋峠から入ってみたいなと思います。

参考にした本:「2つの飛鳥/川田武」・「街道をゆく・壺阪みち/司馬遼太郎」・「悪人列伝・蘇我入鹿/海音寺潮五郎」

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