舘山城攻め


2017年09月

米沢名物と言えば米沢上杉家や原方衆のソバ畑などだが、その米沢の町の西の端、舘山城も面白いところである。これからどんどん知名度があがり米沢名物の一つとして君臨するであろう場所だった。
なによりもここの持ち主の方が熱い方で、看板を立てたり雑草を刈ったりして人々が来てくれるのを大歓迎している。そんな所を「舘山城ハンドブック」を元に少し紹介してみたいと思う。

国道に看板も出してあって安全安心の舘山城。この道を左に入って少し行けばすぐに入口の舘山城東館跡に到着する。かなり広い空間になっていたので車を止める事も大丈夫なはず。

国道に看板が出ている

舘山城東館跡の看板

舘山城に入るとまず看板で大歓迎をしてくれる。「私有地につき立ち入り禁止」という看板はよく見かけるんだけど、「私有地につき立ち入り大歓迎」は初めて見た。この看板にご主人の性格が表れてるんじゃないかと思う。

まずはこの城の至る所に立ててあった看板の縄張り図を掲載しておこう。この突き出た山の北側、東側、南側にそれぞれ館跡がある。緊急時に山城に逃げ込む中世山城の典型的なものだと思うが、規模の大きさはかなりのもので伊達の力を現しているような気がする。
舘山城の縄張り図 ※クリック拡大

舘山城の先端部を外側から

舘山城の東北電力から置賜盆地

舘山城は山の尾根の先端部を利用していて舌状の形になっている。北に石切山、大樽川があり、東にはなでら山が大きくそびえ立ち、小樽川が流れている。東北部分が川の合流地点で鬼面川となりその向こうには広大なる置賜盆地が広がっている。山と川に囲まれ奥まったその場所は、さながら獰猛な虎が森に隠れ、好餌に飛びついてきた獲物を狙うかのような、そんな地勢となっている。

東館跡の説明板 ※クリック拡大

舘山城東館跡の空間

井戸跡

舘山城の麓には東館跡、北館跡、南館跡があり、東館跡が舘山城への入口となっている。この東館跡が一番置賜盆地に近い所であり、身分の高い人が居住していたと推測されている。
北館跡では33棟の建物が検出されていて家臣団の屋敷群と関連施設と推測されている。南館跡は具体的な建物跡が検出されておらず、有事の際の領民の避難地や軍事演習の場などの説があるようだ。

東館跡を奥に進んでいくと大手口があり、そこから山城へ登るようになっている。
※縄張り図の番号を写真につけておく

1.東館跡から大手口を進む

1.休憩所を作ってくれている

大手口の所に休憩所が作ってあり、ここでは椅子に座り水も飲めるし地図も置いている。ここに来て初めて舘山城というものがどんなものか分かった。
休憩所に看板が立ててあり、天正19年(1591)に松下石見守之綱と山内対馬守一豊の二人が伊達氏移転の監視に来たと書いていた。

大手口からたいして険しくもない登城路を登り、あっという間に南虎口跡に到着。方形に削りだして粘土を床に貼りつけているらしいのだが、粘土を貼りつけるとどうなるのかがよく分からない。柱跡は確認できなかったようだが南門があったと推測されている。
その南虎口を越えると広い平坦地が見えてくる。東西に120m、幅68mの面積を持つ曲輪Tである。この曲輪Tが最終的には主郭になったそうだが理由はよく分からない。曲輪Uが主郭になるような気がするのだが・・・。

2.南虎口跡

5.一番広い曲輪T

曲輪T北側の帯曲輪

15.横堀状帯曲輪

曲輪Tの周りには帯曲輪が作られていて連絡用の通路として使われていた。確かイヌ走りだとかいうやつだ。
曲輪Uの北に作られている帯曲輪は幅がさらに広く横堀状と書かれていた。ちょっと堀っぽくなっているようにも見えるし、帯曲輪よりも広くて非常に歩きやすかった。

曲輪Tの西側には土塁と桝形虎口があり、曲輪Uと直接つながらないようにしている。直線の土塁とL字の土塁を組み合わせて桝形虎口の空間を作っている。

6.土塁

7.桝形虎口

7.桝形虎口

7.桝形虎口の石垣

桝形の周辺には大量の川原石があちこちに散乱し、縄張り図10堀切りの部分には特に多量に存在していて、その機能を探るために掘り下げてみると石垣が出現したそうだ。この川原石は石垣を積むための裏込め石であったのだ。
その川原石の下から出てきたのが写真の石垣になる。石切山の凝灰岩を使い「打ち込みはぎ」と呼ばれる技法を使ってあり、東日本では慶長期(1596〜1615)以降に使用された技法である。つまり、天正19年(1591)に国替えになった伊達氏ではなく上杉氏がこの石垣を作ったとされている。が、舘山城保存会としては伊達氏が作ったものと考えているらしい。
保存会の方の意見としては、関ケ原の合戦に負けて米沢30万石に減らされ、この状態で徳川に目をつけられるような事をするはずがないと熱く語ってくれた。さらに伊達氏が作ったという理由として、中央とのつながりが強く、置賜での伊達時代の山城で石垣が発見されているから技術的にも十分あり得る事と言っていた。
文化財課の方にも少し聞いてみたが、一番の理由としては直江の書状が残っており、そこに「舘山の一件は無しにせよ」(少し記憶が曖昧だがこんな感じ)といった文面があるのだそうだ。それが石垣を破却せよと言っているのかは分からないらしい。

桝形虎口を越えると堀切があり、北側の斜面には堅堀がある。たいして高くないんだけどこの急斜面はちょっと登るのが大変そうだ。この堅堀が桝形虎口の土塁の裏手の堀切に続いている。写真にあるように大量の裏込め石で埋められており、その奥に石垣が少しだけ見えている。

11.意外と険しい堅堀

10.裏込め石で埋められてた堀切

12.曲輪U

13.曲輪Uの西側土塁

曲輪Uは最初の主郭と考えられているらしい。堀切を埋めて桝形虎口を作ってからは曲輪Tが主郭に変わったと説明板に書いてあった。(何故かは分からない)
西側の土塁はかなり大きく、長さ70m、幅15m〜25m、高さ6mもある。さらに南北にも土塁が作られており土塁に囲まれた一画となっている。

曲輪Uの西土塁を越えると堀切が現れる。現在はその堀切を利用して導水路を作って発電所に送っているそうだ。
土塁と堀切で仕切られた曲輪Vは、中央付近に方形の塚があり、信仰の場所として使われていたと推測されている。

曲輪Uの外の堀切

曲輪V

物見台への坂道

19.一番高い所にある物見台

曲輪Vから少し南へ進むと急な登りになり物見台に到着する。物見台ではあるけど木が邪魔でまったく景色は見えなかった。物見台の西側にある堀切をもってこの城は終わりとなる。

最後は帯曲輪を通って帰っていたのだが、途中で採掘抗と書かれていた所にでくわした。ワクワクして入ってみたものの、すぐに行き止まり、右側に小穴があるだけでそれ以上は入っていけなかった。
「伊達治家記録」と「伊達天正日記」による舘山城関連の記載として、
「片倉藤左衛門におたて山川(小樽川か?)での金鉱採掘を許可し、「要害」や周囲の田畑に影響がないように指示。」
これを保存会の人に聞いてみたのだが、金の採掘跡は川の中に埋もれているので、帯曲輪にある採掘跡というのは分からないとの事だった。

採掘抗と書かれてた所

右へ入る狭い穴がある

山城とはいうもののさして高くもないところに作っていて、曲輪も広いところが2つだけと、そんなにめぼしいものは無いように思えたが、土塁なんかはかなり大きいし、桝形の小石の中から石垣が顔をのぞかせてるのも印象的で面白かった。少し気になったのが西側のかなり高い土塁。曲輪Tが主郭らしいし、西側から攻められるのを恐れていたのだろうか?

上杉頼みと言われる米沢の地で生まれたる異端児「舘山城保存会」。彼らの大きく見開いたその隻眼に見えているものは、旧態依然とした米沢ではなく、生まれ変わった新米沢の未来なのかもしれない。


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