宇陀松山城攻め


2018年01月

宇陀松山城跡の説明会が宇陀文化会館で開催されていたので参加してきました。桜井市側から音羽山を越えて宇陀本郷地区を通って行きました。この付近で昔は辰砂がゴロゴロしてたとのことなので通ってみたかったのです。

音羽山頂上への普通の道

下山は笹を頼りに降りる

宇陀松山城説明会が午後からなので午前中に音羽山を散策します。音羽山観音寺で犬に吠えられ、ほうほうの体で先に進むと音羽山の頂上への道があります。見晴らしのいい道と普通の道とあるのですが今回は普通の道を通ってみました。この辺りの岩は緻密な閃緑岩で、宇陀松山城の石垣に使われていた岩と似ていました。大和郡山城や高取城は転用石が多いので、宇陀松山城も同じような事があるのかなと思ってましたが、緻密閃緑岩を主に使用していて転用石などは無さそうでした。こちらは使いやすい岩が豊富ということでしょう。

辰砂がどこに転がってるか分からないので沢を目指して降りてみました。右写真のような笹があれば根がしっかりしていて安全安心、つかみながら降りると滑り落ちることもないです。ある程度平坦な所まで降りて、沢沿いに歩きながらずっと見ていたのですが、なかなか無くて、仕方なく鉄分がついたような赤身を帯びた石を持って帰り、博物館で見てもらったのですが、汚れと言われてしまった・・・・、ショック・・・。

10分程遅れて説明会に到着し1時間半ほど話しを聞きました。説明会の講師は城郭研究者の千田さんという方で世界の城も研究していて有名みたいです。
まず、奈良に残る城の紹介にはじまり、宇陀市伊那佐山の沢城でキリスト教会があった可能性、越前や飛騨の城との比較、世界の城との比較等をしてました。

特にキリスト教会が発見されれば国史跡確実だとか、宇陀松山城の詰め丸の発掘もするべきだとか、市民の方に城跡というものを知ってもらい、それが市のアピールになるような解説に終始していたように思います。
今回の説明会を聞いてみて思いましたが、城郭研究家が城の発掘への理解や、文化財を利用しようという働きかけなどをやっていることに少し驚きました。研究家はもっと難しそうな話しをするものとばかり思っていましたからね。

頂いたパンフレットに色々書いていたので、それも参考に宇陀松山城へ訪問いたします。

1.城山の地図 ※クリック拡大

2.縄張り ※クリック拡大

3.宇陀松山城への入口

4.秋山氏が治めていたので秋山城

松山城への道は大手門と春日門の2つの道がありました。
大手門は「道の駅宇陀」のすぐ正面の所で、城にとっては南側の谷から入る事になります。当時は湿地が広がっていたようですが今は面影もなく、車も入れる道路になっていて、今もなにか工事をしておりました。
春日門の方は城山の北西から入る門で、町の中心であったところから城へつながっている。ここは外門と内門を設けていて大規模な桝形虎口であったものと考えられていて、この春日門を基点として南北に石垣を延長し山側の武家地と川側の町人地を明確に分離していたそうである。

昼食に訪れた「牛丼屋・件」という店で地元の初老のご婦人に聞いた話しですが、子供の頃この城山でよく遊んで、麓の神楽岡神社から城山に入れたのに、今はもう入れなくなったと言ってました。
その神楽岡神社から入った場所は附山と書かれているところになっていて、松山城跡の南西にある山なのですが、地元の人からすると全体で城山なのだろう。城山側から附山に少し入ってみましたが、小屋のようなものが建っていただけでだったので調査はされていないのかもしれない。

宇陀松山城は秋山城とも言い、宇陀3人衆だとか言われる秋山氏がこの城を築いたようです。羽柴氏が大和に入って来た時に秋山氏は追放され、以後は羽柴氏家臣が領有していました。その羽柴氏家臣の多賀氏がこの城をさらに近代城郭へと改修していったと説明されています。

5.春日門から城へ続く大手道

6.大手道?と思われるところ

5写真を曲がったところが6写真になります。現在は細い道ですが発掘調査で道幅6〜7mの大手道が確認されたそうだ。城山と付山に挟まれた谷筋沿いに春日門から雀門まで大手道が眠っている公算が大きいともパンフレットに書いている。これからもっと調査をやっていきたい意欲がすごくでています。それで今回アピールしにきたのだなと思いました。
6写真は大手道の続きのところですが、調査後に埋め戻されたのかとても大きな道があったようには見えません。

7.雀門前面の横堀

8.すこし遠目で

9.雀門を下から攻める

10.雀門を上から防ぐ

11.桝形虎口部分

12.石垣は閃緑岩と思われる

大手道を少し進むと7.8写真の横堀が見えてきます。ここが南西虎口部の横堀と紹介されているところで、主郭部と城外を結ぶ重要な場所となっている。その横堀が現況で幅約11,5m、深さ約5mと大規模なものとなっており、現在は細い土橋でつながっている。写真で見てみると良くわからないが実際に見てみると、かなり大きくて迫力のある堀だった。
南西虎口付近の石垣裾からの大量の投棄瓦が出土していて、そこから類推すると台上には多門櫓や隅櫓が構築されていたと考えられている。特に門を入ったつきあたりの隅櫓は大規模だったようである。
そしてここから織田・豊臣時代に多用されている屈曲門といわれるところになる。桝形を連続で配置し、高低差や石垣で空間を組み合わせ、4つの桝形空間をうみだしているという。実際に歩いてみた感じだと蛇行しながら上がる感じだったのでよく分からないのですが、復元図を見てみると高低差を利用しながら複数回曲がっていて、櫓を配置することでかなり狭い空間になっているのだと感じる。ここがこの城の中で千田さんがおすすめする一番の見どころらしく、じっくりイメージをしながら進んでくださいと言っていた。

13.本丸御殿城

14.発掘調査の写真 ※クリック拡大

雀門を入って少し登るとこちらの本丸御殿で、ぽこっと出っ張ったところが天守郭となっております。この本丸御殿には西側と南東に虎口があり、周りを多門櫓などで囲っており、中心に5棟からなる本丸御殿が建築されていたと推測されている。
天守郭は西側に二か所虎口があり、ほか三方は高い土手になっていて南北には横矢桝形が設置されていた。そして天守に相当する多重の建物が存在したと考えらるそうである。
発掘調査時の看板写真を見ればおおよそのイメージはできるものと思われますが、天守は高い位置にあってそこに攻め入るには狭い帯郭を通り、さらに虎口を通ってようやくたどりつけるのです。こうして見てみるとかなり手の込んだ城であったことが分かりますね。

15.天守郭から見る二の丸

16.天守郭から見る大御殿郭

15写真は天守郭から南東方面の進入口を見ています。杉が生えまくっているところが二の丸で、そちらは調査されていない模様。そこからちょっともっこりしてる土のところに大門と名付けてる門があったようです。南東方面はあまり狭い空間を用いていませんので、二の丸側から攻めてきてもらうのが希望だったのでしょうかね。
16写真は大御殿郭とその向こうの平坦地が御加番郭です。大御殿とか御加番とか変な名前ですが古地図の「阿紀山城図」にそう書いてあるので使っているものと思われます。こちらは北側からの侵入に対して備えたものでしょうが、守り口など詳しく書いていないのでまだまだこれから調査していくのかと思います。

17.北側の帯郭

18.崩れてるところを近くで

19.畝状空堀群

20.本丸御殿下の横堀?

天守郭から北側の帯郭を眺める。南側はかなり崩落しているため進入禁止のロープが張られておりました。なのでせめて北側だけでも体験しに行きます。発掘調査をしたあとなんらかの処置をしないとこうなるってことですよね。小石とかが一杯落ちていたのでここにも石垣が使われていたのかとも思います。瓦なんかもちょこちょこと落ちてました。
19写真が千田さんおすすめの畝状空堀群。世界的にもよくあるそうで土作りの城が究極の段階に到達したときに出現した防御施設なのだそう。つまり石垣を使わない秋山氏の時代にもかなりの防御力を誇っていたということですね。説明会では発掘調査時の写真を紹介していて、確かに筋ができていたのですが、今こうして来てみてもまったく分かりません。みたところここは傾斜が緩やかになっていたので、敵が集まりやすく、筋を一杯作る事で弱い所をカバーしているということでしょう。
20写真は本丸御殿の下の横堀っぽいところで、これが最初の横堀につながっております。今の状況でも上り下りするのはなかなか大変でした。

説明を聞きパンフレットを貰ったので、楽しく城めぐりができました。初心者にとっては分かりやすくていい城かもしれない。

天守から北側を眺める(榛原方面の鳥見山や額井岳) ※クリック拡大
ここの天守郭はかなり眺めが良くなっているので気分はいいです。逆に遠くからこちらの城山を見ると真ん中だけがハゲていてそれはそれで特徴的でいい感じ。そのかわりあちこち崩落してしまってますけどね。

※参考本:史跡宇陀松山城跡・2017宇陀市教育委員会

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