有年山城攻め


2019年11月

今年の初めに有年考古館へ行った際、「放亀山古墳」の現地説明会資料を頂いた。
赤穂市に古墳は数多くあるが、今まで前方後円墳は発見されてこなかった。最近になり「放亀山古墳」の墳丘確認調査が行われ前方後円墳であることが分かったという。

館員の方は熱く語る。「赤穂市でようやく発見された前方後円墳は、考古館から千種川を越えたあの山の頂に存在するのだ!」と、西へ沈みゆく夕日に向かって指さした。古墳なぞ見慣れているはずの玄人を、これだけ興奮させるしろものならば是が非でも見ておかねばなるまいと思った次第である。

左の峰が有年山城・右の峰が放亀山古墳

ハイキング道の入口である八幡神社
放亀山古墳へは西側の八幡神社からの侵入が容易だと思います。帰りは東側から降りたのですが、柵があったり、堀があったりで、非常に面倒でしたし、登山口も草に隠れていて少し分かりにくいと感じました。

八幡神社の脇にある看板の地図 ※クリック拡大
まずは八幡神社の脇にある看板で地図を確認しておきましょう。道は比較的分かりやすいですし、「放亀山古墳」まではカラーテープもしっかりとついておりましたので迷うこともないと思います。

説明看板上の大鷹山城が有年山城や八幡山城とも呼ばれていて、曲輪・土塁・堀などの痕跡があり、曲輪の配置が鍵形梯郭式の赤穂市内最大の城跡だという。
「播磨鏡」「播磨古城記」「赤松家播備作記」などの古書から、最初に城を築いたのが赤松円心の子である、赤松信濃守範資の三男、本郷掃部介直頼で、貞和年間(1345〜50)のことという。その後、この城に居城したのが富田右京という人物であるが、浦上宗景に攻められて滅ぼされたらしい。(「文化財をたずねて・赤穂市教育委員会」から抜粋)
このように来歴が紹介されていましたが、本郷氏や富田氏の名前が記録に残っていただけなので詳細はよく分からないということでありましょう。

綺麗に復元されている灯台

灯台より千種川

鳥居をくぐり5分も登ればすぐに整地された場所に出て、そこに大きくて綺麗な灯台があり、麓の西国街道からもよく見えます。ライトアップもしていることも考えると、西国街道から眺めれるように復元したものと考えられます。
江戸時代の盛んな水運の為に作られたものですが、川でも道しるべが必要なことに驚きます。今では分からないことですが、昔は支流も広くてよく間違ったのかもしれません。

八幡神社の正面

拝殿には絵馬がたくさん

頭がクリスタル形の灯籠が多い

本殿は少し荒れていた

灯台から少し進むと神社の拝殿が見えてきます。立派な拝殿の中には絵馬がずらっと並んでおり、往時の殷賑さを物語っております。その信仰が今でも続いているかのように新しい社がいくつか建っております。その新しい社には「○○組」と字名が記されており、今でも小地域で密接なつながりを持っているということが分かります。
本殿裏の少し崩れた塀が気になりますが、私はこのような寂れた光景が好みでありますので、あまり手を加えないで欲しい気もします。

少し急な坂を上る

砂地が目立つ場所にはロープがある

本殿の脇を抜けるとやや急な道をどんどんと登って行きます。一気に上がって行くので景色の移り変わりが激しく登っていてまったく退屈しません。少し危険な箇所にはロープもあり楽しくハイキングができるコースでありました。

主郭の手前から撮影

左写真の土塁と書いた部分を近くから

頂上の平坦地が主郭

主郭よりの眺め

神社から20〜30分ほど歩くと頂上に到着します。頂上が有年山城跡の主郭で、写真では分からないものの海まで見える展望があります。
この城も尼子山城同様に北側の奥に曲輪が続いています。マップでは南西にも曲輪がいくつかあるように書いていますが登っていた感じでは1つしか分かりませんでした。

主郭の北にある曲輪A

曲輪Aにあった落とし穴?

曲輪Aの北は絶壁に

曲輪Aの東は帯曲輪?

主郭の北側には細長い曲輪があります。ここには堀切?のようなところや落とし穴?のような穴状のものがありました。北の端まで行きつくと絶壁になっており、地図のように尾根状の曲輪がついているようには見えませんでした。
さらに東側に数段ついているよう書いてある曲輪も、私が見た限りでは分からず、帯曲輪のようになっておりました。

曲輪Aの西は段々に曲輪が続く

曲輪Bは意外と広い

曲輪Aの西側には分かりやすい曲輪が段々と連なっています。
この西側が一番登りやすいところなのでしょう。4段降りてもまだ下に曲輪が続いていました。土が厚くて、少々急なところも歩きやすい場所でした。

主郭から少し東にある土橋

土橋の先にある堅堀のような場所

主郭に戻り東へと歩みを進めると、尾根を徐々に下って行く道になり、土橋状のものがあります。両隣には横堀のようなものがついていて道をグッとせばめています。
さらにその先は急な坂道となり、堅堀のようなものが現れてきます。山にはこのように、道か溝か堀か分からないようなものはよく見かけるので堀とはっきり言えるかはなんともいえません。

円墳@を北から

円墳@を南から

堅堀を通り過ぎるとまたなだらかな道になり、少し岩が目立つ道になってきます。その平坦部分にぽっこりと丸く膨らんだ箇所がありました。ここは地図上にもある大きな円墳なので、前方後円墳を発掘調査することになればここも掘られるのではないかと思われます。

放亀山古墳・前方部から後円部

放亀山古墳・後円部から前方部

前方部の葺石

後円部の葺石

円墳@からしばし歩くといよいよ放亀山古墳へと到着します。前方部が山を登り切る最後の坂道となっており、いかにもここが古墳だと分かるような地形でありました。

現地説明会資料によると、この古墳は前方後円墳であり、後円部・前方部共に2段築成。全長38m、高さ4、5mで、葺石の特徴と出土土器から古墳時代前期前半のものと判明。
後円部の頂上に木の棺を埋めた墓があり、周囲に石材や土器が配置されていた、との事です。
現状では棺の跡やその周りの石材は分かりませんでしたが、前方部や後円部の葺石は露出しており確認することができました。また、見た目としても前方後円墳の形状であり、前方部よりも後円部が一段高く、他の地域でみる古墳と同じでありました。

古墳のような盛り上がり1

古墳のような盛り上がり2

ここからは後円部のテラス状の平坦地を通り東へと降りて行きます。途中、古墳状の盛り上がり地点が複数ありますが、見てても分からないので軽くでも掘って欲しい気がしました。
マップ状では東に行くと道が行き止まりになっているように見えますが、南へ降りて行く方角にテープがつけられております。最終的に東南の出口のところへたどり着きますが、最後は道が土砂崩れしていたので注意が必要です。

山裾に変なものがあった
山裾の舗装道路を歩いていると変な岩がありました。この山と集落の間は柵で完全隔離されており、ときどきある入口が針金をぐるぐる巻いて非常に入りにくいのです。しかし、この岩の前だけはグルッと回すと入れる扉になっており、今も人が訪れている事が伺えます。顔のような岩は少し趣味が悪いようにも思えますが・・・。
この岩は巨岩を二つ重ねた岩で「重ね荒神」というそうです。塞の神、稲荷社を祀っていて、外部から疫神や悪霊が集落に侵入することを防ぐ為のものだそうです。(「文化財をたずねて・赤穂市教育委員会」から抜粋)

サッと見学しただけでも城跡や古墳跡ははっきりと分かりますし、道もしっかりしていて2、3時間もあればだいたい回る事ができます。ですので、付近の整備されている遺跡や考古館とセットで観光するのが良いかと思いましたし、じっくり回るならば、この山の北側にも城跡や古墳跡がたくさんあるので、見どころ満載のテーマスポットといえるのではないでしょうか。



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