宇和島城攻め


2019年09月

日振島を訪れる為に立ち寄った宇和島の地。愛媛の国府・松山からバスでおよそ二時間もかけて南下した場所に立地している。狭い入江に面した狭い町の中心には城山があり、雑木林の中からひょっこりと宇和島城の天守閣が顔をのぞかせ、この土地に暮らす人々の生活を見渡しているかのようだ。

今は昔、豊臣・徳川時代と紆余曲折を経て伊予は8藩へと分かれた。そのうちの1つが宇和島藩10万石だ。戸田ー藤堂ー富田と領主を変え、宇和島城を築いたのは城造りの名手である藤堂高虎だが、伊勢への転封により富田が領主となる。佐田岬に運河を開こうとしたと言われる富田だが、千姫強奪で有名な坂崎と揉めて改易となった。
そこへ独眼竜政宗の子、伊達秀宗が大阪の陣の功により入部してきた。この伊達家が幕末までこの地を治め、幕末には伊達宗城が四賢候の一人として活躍し、本家仙台伊達家の知名度をゆうに上回ったのである。

尻割山からの眺め ※クリック拡大
山へ登って宇和島の町を眺めて見ました。伊達秀宗以前、宇和島城は板島城と呼ばれていて、海に浮かんでいる板のような島だったと推測されます。藤堂が城を築いた時も5角形の2面は海に接していたので、かなりの部分が埋め立てられている事が分かります。
この写真を見ても当時の城下町の姿を想像することが容易ではありませんが、宇和島城天守閣の最上階に古地図が展示されていたので、それをご覧になれば少しイメージできると思います。

宇和島城の地図 ※クリック拡大
マップの水色の部分が海だった場所で、その海水を堀に流し込み城と町とに分けています。天守閣の古地図には、海に対して開かれている二面には石垣を備えるいっぽうで、西南の御材木蔵付近には堤防が作られていて、そこから船に乗って人が海へ出ていく様子が描かれています。
現在では、商店街や住宅地が造営されて街の中心地になっているので、堀も埋められてしまい当時を感じられるよすがは何もありません。

東北の潮見櫓周辺

南側の上り立ち門

宇和島城内への入口は二か所、東北の「桑折家長屋門」と南の「上り立ち門」です。
「桑折家長屋門」は、道路拡張によって城への入口に移転してきた門で、元禄16(1703)年頃のものと推測されているようです。門以外の具体的な説明はありませんでしたが、伊達秀宗の四男・宗臣が桑折家に入り、一族となった権勢をこの門から見てください、ということでしょう。何故か写真を撮り忘れてしまいましたが、ネット検索するとすぐでてきます。
南側の「上り立ち門」はさらに古く藤堂高虎が城造りを手掛けた頃まで遡れるかもしれないとの事。古地図にもこの門が描かれていますが、さして頑丈そうにも見えません。ただ、この門は武家の正門とされる薬医門という形式を取っているそうです。瓦に伊達家の家紋、九曜紋が刻まれていることから考えても、武家の正門として使われていた、と考えるべきなのでしょうか。
大戦末期に11回もの爆撃を受けたにもかかわらず、このような古の建築物がしっかりと残ったので、これからも大切に保存していくべきでしょう。

井戸丸矢倉の桝形

左写真を上から、横矢が掛かる

井戸丸の井戸

井戸の説明板

東北の桑折家長屋門をくぐると、緩やかな坂道と急な階段に分かれます。階段のほうを選ぶとすぐに井戸丸矢倉が見えてきます。野面積み加減の石垣ですがかなり高くそびえたっています。この石垣にぶち当たることで桝形という空間を作り出し、横矢がかかるようになっています。
説明看板に書かれているように、急な斜面にこれだけの石垣を配するのだから厳重に守っていたことでしょう。

三の門を上がったところ

三の門から天守方面の帯曲輪

三の門から二の門

最後の門、櫛形門

井戸丸からまた階段を上がって行きます。突き当たると道が分かれ、北側に行くと山里倉庫(城山郷土館)という宇和島の偉人たちを紹介している建物があります。数多くの人物が紹介されているし、ビデオコーナーや宇和島を愛した文学者たち、というコーナーもありました。分かりやすく紹介しているので時間があれば立ち寄ってみると良いかと思います。

もう一方の南側の道を行くと三の門へとつながり、すぐ目の前には高い石垣があり、その上に天守が見えております。藤堂が作った石垣はこのように真っすぐ上がっているのが特徴で、加藤の勾配のついた石垣と対比されるようです。強度や攻めにくさ、作業性の良さなど色々と違っていると思うのですが私では違いは分かりません。

三の門の先は石垣で阻み右へ進路をとるように誘導します。そこには二の門があり、くぐり抜けると小さなスペースの二の丸で、ここで進路を180度転換させて最後の門、櫛形門へと到達。このように三の門から本丸へ至るまで幾度か方向転換をさせ、連続で桝形を設置することにより、城の防衛がより容易になってくるのです。これを「屈曲門」と言います(千田氏談)。

本丸の風景

櫛形門より海を眺める

本丸に入るとすぐに御台所跡があり、奥に天守閣があります。御台所の反対側には整備途中なのか石垣が置かれ網を張って入れないようにしています。ここには矢倉群があったので復元する予定なのかもしれません。
見晴らしもまあまあいいのですが、裏山から見た方が断然気分がいいので尻割山まで登ってみることをお勧めします。

こじんまりとした天守閣
天守閣は思ったよりも小さかったのですが、説明書きを見てみると、装飾性の高い破風や懸魚が施されていて、御殿建築の意匠が随所に見られる格式を重んじた造りとなっているようです。現存している数少ない天守閣という珍しい要素もあります。
天守閣の中へは200円を支払い入場します。3階建てとなっていて、宇和島伊達氏、各地の天守閣の紹介、アート作品の展示、最上階には古地図屏風の展示がありました。階段が梯子状のもので降りるのが怖かったのが印象に残りました。

式部丸と上につながる通路

式部丸の石垣

城山南側から降りる為に代右衛門丸を通ろうと思っていたのですが、現在は立ち入り禁止の為、長門丸より下って行きます。すると、式部丸という場所があり説明看板が建っております。そこに書かれている事は、山崎式部という伊達家家臣がおり、寛文9(1669)年に城普請大奉行に任じられ、この時期に城を改修したと思われるそうです。古地図には式部丸の部分が林として描かれ、幕府が城の改修に目を厳しく光らせる中、櫓や門を作らずに曲輪をひそかに作ったということです。
右写真の石垣は手入れを最小限にとどめて復元したもので、石垣の上は立ち入り禁止の代右衛門丸となっています。

代右衛門丸への入口

煙硝矢倉の石垣

式部丸から上に通路がつながっていたので登って行ったのですが、やはり代右衛門丸には立ち入り禁止のようです。仕方がないので帯曲輪のような平坦地を歩いて行くと、行き止まりになってしまい、地図の煙硝矢倉の部分へと到達します。
この場所は通路にしては幅が広すぎるので帯曲輪だと思われます。だとすると帯曲輪を石垣で仕切り、連続で帯曲輪を造成している理由が分かりません。城って難しい!

上り立ち門への道

護国神社の狛犬の刻銘

式部丸から上り立ち門への道も石垣がずっと続いておりました。登城道を1つにする為の工夫なのでしょうか?詳しい事はよく分かりませんが古地図にも石垣のような塀のようなものが描かれています。この坂を下りきると上り立ち門へつながり国道へと出る事になります。
門を出ると隣が南予護国神社となっていて、そこに渋沢敬三の祖父、渋沢栄一が寄進した狛犬がありました。何故寄進しているのかよく分からないのですが、宇和島の偉人の1人、穂積陳重という法学者に栄一の長女が嫁いでいるようです。最後に渋沢に挨拶をして宇和島城を離れましょう。

宇和島城はこじんまりとした城で、街の中にあるのでいつでもぶらりと立ち寄れる気楽さがあり、本格的な石垣や凝った造りという面もあります。城と同様に町もこじんまりとしていますが、町のあちこちには「誰々の生家」という案内看板があり、それらを見ようと思うと大層疲れますし看板巡りになってしまうので注意が必要です。
城めぐり初心者の私では細かい部分で分からない事が多くあったので、詳しい解説書を持って行くべきかもしれません。ボランティアガイドの人は居ませんでしたが、山里倉庫や天守閣には案内人が居たのでそちらで話を聞いてみるのもよいかと思います。

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