寺山攻め


ーーーはじまりーーー

最近「2つの飛鳥」(著・川田武/新人物往来社)とゆう本を読み、飛鳥の事について興味が湧いてきました。飛鳥という地名は、大阪府羽曳野市と奈良県高市郡にあります。十五キロ程しか離れてなくて、古代に色々と共通点があり、同じ文化を持っていたのではないかと書かれていました。

大和飛鳥に高松塚古墳の彩色壁画があり、河内飛鳥には玉手山古墳群の線刻壁画があります。蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳に対して、河内の磯長谷にも馬子の墓と言われる場所があります。両飛鳥の古墳に使われている漆喰などは、二上山近辺のものが使われているようで、2つの飛鳥は古代から密接な関係があったものと思われます。

本には、2つの飛鳥の昭和48年当時の状況が書かれており、古墳の保存の仕方も両飛鳥で違っていました。

大和飛鳥は観光地として古墳保存を行いましたが、それがかえって歴史風景を壊すような景観になっています。河内飛鳥は大阪のベッドタウンとして宅地造成し、ブドウ畑の開発などで古墳が破壊され、わずかに残された古墳は、ブドウ畑の道具置き場として活用され、その為に保存されているような状態です。(ここが重要、ここにトキメキました)

河内飛鳥に郷土史家の三木さんという方がおり、その方はブドウ畑を調査しまくり、ついには河内飛鳥にも宮殿があったはずと、寺山に目をつけそこを調査して、山頂付近にいわくありげな石の構造物や、土器を発見しております。(奈良時代のものらしいが)これは是が非でも行ってみなければならないと思い、寺山攻めを行いました。

2017/01/01

麗しい陽気のとある冬の日、我々は河内飛鳥へ向かいました。近鉄の上の太子駅で下車し、まずは小手調べに、聖徳太子の墓がある叡福寺を目指し、その後、飛鳥部神社や観音塚古墳、そして寺山を責める予定です。
上の太子駅近辺にはブドウ畑が多かったのですが(昔は柿畑と思っていた)、台地になっている所を上がっていくと、住宅街に出ました。
この辺りが磯長谷と言われる場所で、蘇我氏が本拠地としていたところです。それを証明するかのように、蘇我氏が力を持っていた時の天皇陵がたくさんあります。蘇我氏と仲が良かった聖徳太子の墓があるのもその1つです。
本には、「なだらかな丘陵と、古墳群とが入り組んだ静かな谷であり、田んぼの畦道の向こうに推古天皇陵のうっそうとした松林が見える風景が、いつも心の安らぎを感じさせる」と、書いてましたが、今、私の目に映るのは、綺麗に区割りされた家ばかりで、田んぼの畦道などは見えません。当時の風景とはまったく異なってしまっているのだと感慨深かったです。ただ、静けさだけは当時と似ているかもしれません。
駅から20分程歩いても、なかなか目的の叡福寺が見えないので、ネット地図を脳内に保存してきただけではダメだったのかと不安になりましたが、なんとか聖徳太子の墓のある叡福寺に到着し(ただ真っすぐ進んでただけだが)、その前にあった地図看板をカメラで撮りまくりました。
地図を手に入れホッと一安心した我々は、勢い新たに太子の眠る叡福寺へと足を踏み入れたのでした。

勢い込んで入ってみたものの、寺に関してなんの知識もない我々では右も左も分からなかった。なんとなく普通の寺よりもお堂の数が多いなあ、境内もかなり広いなあ、くらいの気持ちで見て回ってました。いい陽気とはいえお参りに来る人が多いようで、混雑とゆうほどではないがザワザワとした感じでした。これが1500年も続く太子信仰というやつなのだろうかと、太子の威光に嫉妬すら感じさせられました。
叡福寺の縁起によると、太子の陵墓を守るために作られたお寺であり、現在の叡福寺は織田信長の兵火で焼失した後に建てられたもののようです。昔は法隆寺のように東西両院からなるお寺だったらしい。
叡福寺は混み合っていた?ようには見えないな

数分程歩き、いよいよ太子とのご対面の時がやってまいりました。こんもり古墳があって、神社のように結界があり、本殿に続く幣殿があり、天皇陵で我々が拝む所が、拝殿のようになっておりました。
太子は仏教を導入し、あちこちにお寺を作って、墓を守護しているのもお寺なのに、太子廟は神社になっておりました。神仏習合の名残かもしれませんが、明治10年に修理工事が行われているので、戻すときに明治時代の気風として、神社風に作り変えてしまったのかもしれませんね。太子の心の内を思うとショッキングな内容だと思いました。
しかし、皮肉にも時代に合わせて変わり、信仰されているからこそ、太子廟は盗掘にもあわず、今もなお、お参りされているのかもしれません。
太子が眠る古墳。太子と妃、太子の母がおわす

太子の思いに心を馳せ、複雑な気持ちにさいなまれながらも、太子に別れを申し告げ叡福寺を離れました。太子の盟友である馬子大臣の墓と言われる場所に行ってみます。
南へ5分も歩けばすぐに到着しました。大通りの裏手の細い路地にひっそりとある感じです。確かに隠して建てたという雰囲気も出ておりますが、馬子大臣の墓と言うにはあまりにもお粗末な感じがします。
本にはこう書いてました。「大和の馬子墓は、どんな政争にまきこまれるかもしれない。そのときに備えて、一族の本拠地である河内に、小さいけれども死者の魂が安らかにもどって来られる墓を造っておいた。これは、二つの馬子の墓を見ての幻想である。」
そういう事もあるかもしれません。死に対する感覚や、墓に対する感覚も違っているので、なんとも言いようがないですが。
それにしても、本に載っている馬子墓はボロボロでしたが、今、我々の目の前にあるお墓は、すっかり修復されておりました。風化が著しくて管理している方が平成十七年に修理したようです。雰囲気も旧跡の一つという感じが出ておりました。ボロボロもいいもんだけど、壊れてしまっては元も子もないですからね。
綺麗になった馬子大臣のお墓

馬子大臣も満喫したことだし、そろそろ本命の寺山にでも向かいましょう。
ルンルン気分で飛鳥川を下り、各々の天皇陵を横目に見ながら、上の太子駅に帰ります。途中で寺山の位置を確認するために、しっかりと山を写真に撮り、脳内地図とかぶせあわせておきました。
これが間違いで寺山と思っていた山は実は春日山だったのだ!!

駅前から竹ノ内街道を大阪側へ進み、適当な所で山に向かうと、飛鳥部神社が見えてきます。周りは集落になっており、車一台通れるくらいの道の両脇に、家がズラッと並んでいました。
飛鳥部神社の鳥居。ここからまだまだ離れてた

本には写真が載っていて(白黒なので現代人の私には見にくい)、周りは草むらで(ブドウ畑らしい)、木造瓦の拝殿っぽいものと、藁葺の本殿っぽいものが写っています。
これを見て、すごい所があるもんだなと思い、来てみたい理由の一つであったのですが、現在はすっかり新調されたようで、拝殿だけが当時と同じような感じでした。
その辺りを散歩しておられたご老体に本を見せて、「こんなんとちゃうんですか?」と、聞いてみましたが、「そんな藁葺なんていつのや。観音塚は草刈ってるさかい、見ていけ。」といった感じで言われました。
なによりも驚いたのが、白黒の写真を見てすぐに分かるのがすごいと思いました。慣れと言えばそれまでですが、内に秘めたる想像力の逞しさを思うと、去りゆくご老体の背中が、とてつもなく大きい岩のように見えました。
本と比べてみる。木が伸びてるが似てるね

飛鳥部神社は、飛鳥部一族の始祖、昆伎王を祀る神社(現在はスサノオ)で、平安時代の延喜式では式内大社でありました。
平安時代までは、朝廷に名を残している人物が出ているようですが、しかし、その後は衰退して、式内大社の面影をしのぶよすがは何もなくなってしまったようです。
昆伎王は460年頃に渡来しているみたいなので、その前時代に来ていた、秦や漢、王仁などに続く、第二弾の渡来人ですかね。何か新しい技術を持ってきていたからいい身分が与えられたわけで、それが果たして、古墳の新しい作り方なのかなんなのか、こういうことは事実が分かるわけでもないので、妄想して楽しみます。そして、またしてもご老体の岩のような背中が瞼の裏に浮かぶのでありました。
新調された式内大社

さて、妄想もほどほどにして、ご老体一押しの観音塚古墳へ行ってみましょう。神社から山へ向かって10分程歩くと池に出ます、そこを左手に行けばすぐに、ほら見えた。
正面に綺麗に草の刈られた小山があり、そこのてっぺんに観音塚古墳はありました。昔はここもブドウ畑だったのですが、今は史跡として市が管理しているのか、草も刈られフェンスも建てられて、しかも階段までついていました。
観音塚古墳遠景。まさかここまで歓迎されるとは

ブドウ畑の中の道具置き場古墳を見たかったので、ちょっと残念な気はしましたが、古墳の所まで上がってみると、結構高い所で、見晴らしがよく気分が良かった。
この古墳はすごい綺麗な切石で作られていて、石室の奥の部屋も棺がちょうど一個入るくらいの広さです。「横口式石槨」と、言うらしいですが、残念な事に説明看板がすでにボロボロになっておりました。
ちょっとボロすぎて非常に見えにくい

この形式の古墳はあまりないようで、河内と大和に主に作られたみたいです。この終末期古墳を最後にして、古墳は作られなくなり時代は終わってしまうのです。
その悲哀を思いながら、遺物と化した古墳を、物置にしてる様子を思い描いてみました。遺物に異物が入っている様が非常にいい感じがしました。
観音塚古墳近景。犬小屋みたいにも使えそう

この辺りは飛鳥千塚古墳群と言われるところで、そこらじゅうが古墳まみれでした。ブドウ畑として開墾されたときに小さい古墳はすべて破壊され、観音塚のようにしっかりしているものだけが残された(頑丈なので農具置き場に最適)ようです。
本に面白い事が書いていて、取材した当時にブドウの手入れをしていた人に古墳の事を尋ねると、「どの山にも、五基や六基の古墳は必ずあった。山をブドウ畑に開墾したとき、古墳の石は大層役に立った。急な斜面を段々畑に区切ってゆくとき、石室の石を積み石に使ったのである。下から石を運び上げなくても、手近にころあいの石があって大助かりだったと農家の人たちは笑って話す。そのころ古墳から土器が出たこともあった。徳利のような型の土器が多かったらしい。考古学に関心のない村人たちは、墓から出土した土器類を気味悪がって、古道具屋にすっかり売り渡してしまったのである。」と、書かれていました。
非常に面白い話で、破壊はされましたが役に立って散っていったのが分かります。古代の半奴隷が運んだのかは分かりませんが、必死に運んでくれたおかげで下から運ばなくてもよかったんですからね。古道具屋も安く大量に土器が手に入り大喜びだったでしょう。
しかし、この時土器が出てきたとゆうことは、ブドウ畑の前はそうそう人の手も入らなかった場所なのでしょうか?それ以前の事なんかを調べても面白いかもしれませんね。
これだけ大量に石が必要ですから大変です

そうこうしてる間に、だんだん日も落ちてきました。今から寺山に行くのは少々危ないかもしれないので、本日はこれくらいにしておいてやろう。
池の所にあった看板に、早朝と夕方くらいには銃を使ったりするから気を付けてと、書いてあったのにビビったわけではありません。

二日目

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